井原西鶴 年譜 |
寛永19年(1642) |
この年、大坂の町人の家に生まれるとされるが出自・家系などは不詳。 |
明暦 2年(1656) |
西鶴15歳。この年頃に俳諧を学び始める。 |
寛文 2年(1662) |
西鶴21歳。この年頃に俳諧の点者となる。 |
寛文 6年(1666) |
西村長愛子編の「遠近集」に”鶴永”の号で発句3区が掲載される。 |
寛文13年(1673) |
6月に生玉南坊で12日間の万句俳諧を興行。処女撰書となる「生玉万句」を刊行 |
延宝 1年(1673) |
「歌仙大坂俳諧師」を編集・刊行。 |
延宝 2年(1674) |
表紙屋庄兵衛版「歳旦発句集」に句を載せて、初めて”西鶴”の号を使う。 |
延宝 3年(1675) |
妻死亡。亡妻のために独吟千句を詠み「俳諧独吟一日千句」を刊行。西山宗因が引点句評した「大坂独吟集」を刊行。 |
延宝 5年(1677) |
生玉本覚寺で一昼夜千6百句独吟して「俳諧大句集」刊行。 |
延宝 6年(1678) |
この年「俳諧胴ほね」「大坂檀林桜千句」「大硯」「俳諧虎渓の橋」「俳諧物種集」刊行。 |
延宝 7年(1679) |
この年「仙台大矢数」「西鶴五百韻」「両吟一日千句」「句箱」「飛梅千句」刊行。 |
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京都の俳人中島随流が「俳諧破邪顕正」を刊行して、その中で西鶴を”阿蘭陀西鶴”とののしる。また俳人松江維舟は「俳諧熊坂」を刊行して、西鶴を”ばされ句の大将”とののしる。 |
延宝 8年(1680) |
生玉寺で四千句独吟して「西鶴大矢数」刊行 |
元和 2年(1682) |
「好色一代男」刊行 |
貞享 1年(1684) |
「諸艶大鑑」刊行。「古今俳諧女歌仙」を編集・刊行 |
貞享 2年(1685) |
1月、宇治加賀掾のために浄瑠璃「暦」新作して刊行。同月「西鶴諸国ばなし」、2月「椀久一世の物語」刊行。時期不明ながらこの年に加賀掾のために浄瑠璃「凱陣八嶋」新作。 |
貞享 3年(1686) |
2月「好色5人女」、6月「好色一代女」、11月「本朝二十不孝」刊行。 |
貞享 4年(1687) |
1月「男色大鑑」、3月「懐硯」、4月「武道伝来記」刊行。 |
貞享 5年(1688) |
1月「日本永代蔵」、2月「武家義理物語」、3月「嵐無常物語」、6月「色里三所世帯」「好色盛衰記」刊行 |
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この年、将軍綱吉の息女鶴姫の”いみな”をさけて鶴の字の使用を禁ずる「鶴字法度」が出される。このため西鶴は”西鵬”と号することになった。(ここではこれにかかわらず西鶴と表記します) |
元禄 1年(1688) |
11月「新可笑記」刊行。この年の9月に改元。貞享→元禄。 |
元禄 2年(1689) |
1月「一目玉鉾」「本朝桜陰比事」刊行。 |
元禄 3年(1690) |
この年前後、西鶴は病気がちで、この年の出版はない。 |
元禄 4年(1691) |
8月難波松魂軒の名前で「俳諧石車」刊行。これは元禄3年に加賀田可休が出版した「物見車」で西鶴を批判したことへの反論として出版されたもの。 |
元禄 5年(1692) |
1月「世間胸算用」刊行。 |
元禄 6年(1693) |
8月西鶴大阪にて死す。享年52歳。辞世の句「浮世の月 見過しにけり 末二年」
この冬、第1遺稿集となる「西鶴置土産」刊行。 |
元禄 7年(1694) |
第2遺稿集「西鶴織留」刊行。 |
元禄 8年(1695) |
第3遺稿集「西鶴俗つれづれ」刊行。 |
元禄 9年(1696) |
第4遺稿集「万の文反古」刊行。 |
元禄12年(1699) |
第5遺稿集「西鶴名残の友」刊行。 |