文学史上では「仮名草子」の次に流行するのが「浮世草子」である。その期間は天和2年(1682)に刊行された西鶴の”好色一代男”を始まりとして、天明3年(1783)に刊行された福隅軒蛙井(ふくぐうけん あせい)の”諸芸独自慢”までの100年間をいい、上方を中心として約700種の草子が刊行されたという。
100年間と期間が長く、浮世草子の内容もその間に変化する。もともと「浮世草子」の名称も元禄時代以降に使われたものであり、当初は仮名草子と区別されていなかったという。また”浮世”という言葉の意味も最初のころは”好色”と同意語で用いられており、長編化した作品が主流を占めるようになると「風流読本(ふうりゅうよみぼん)」と呼ばれることが多くなったという。もっとも”風流”という言葉も当時は好色あるいは当世的な意味合いで用いられていたことから、明治以降はこれらを含めて「浮世草子」と呼称するようになったようである。
私の手元の解説書によると、浮世草子の100年間を以下の5期に分類している。
第1期 天和2年(1682)〜元禄12年(1699)
「好色一代男」に始まり西沢一風の「御前義経記」が刊行される前年まで。
第2期 元禄13年(1700)〜正徳1年(1711)
「御前義経記」の刊行の年に始まり、江島其磧の「傾城禁短気」まで。
第3期 正徳1年(1711)〜享保21年(1736)
八文字屋と江島其磧の抗争が表面化した時から江島其磧の死没まで。
第4期 元文2年(1737)〜明和3年(1766)
江島其磧没後から八文字屋が版木を売却するまで。
第5期 明和4年(1767)〜天明3年(1783)
「諸芸独自慢」が刊行されるまで。
西鶴、西沢一風、江島其磧など才能豊かな作者を輩出し、上方を中心に興隆を極めた浮世草子も、後半は安易で惰性に流れた作品しか生み出せず、江戸の地に新しい文学(黄表紙)が起こる安永年間(1772〜1780)になると衰退し、終焉を迎える。 |