西鶴は元禄6年(1693)8月10日52歳で病死する。西鶴置土産は死の直前の元禄5、6年に書かれたものとされている。門人の北条団水が西鶴の100日法要の時期(元禄6年の冬)に初版を刊行した。掲載本は2板または3板で宝永年間((1704〜1711)に京都五条升屋・青山為兵衛から出版されたもの。
西鶴置土産は西鶴の遺稿集として最初に出版されたものだが、以後に刊行される遺稿集の原稿成立時期はいずれも置土産より以前とされているので、実質的には西鶴最後の作品といえる。第3巻の3章と第4巻の1章は西鶴自筆の原稿を写したもの。挿絵は蒔絵師の源三郎とされる。
団水の追悼文に続き掲載されている西鶴の序文は処女作の好色一代男の世界を否定する内容となっている。
「世界の偽(うそ)かたまって、ひとつの美遊(びゆ)となれり。これおもうに、真言(まこと)をかたり揚屋に1日は暮らしがたし。女郎はない事をいへるを商売、男は金銀を費やしながら気のつきぬるかざりごと、太鼓はつくるたわけ、遣手(やりて)はこわい顔、かぶろは眠らぬふり、宿の嚊(かか=女房)は無理笑い、かみする女(=座敷働きの女中)は間抜けの返事、祖母(ばば)は腰ぬけ役に酒の横目(=管理)、亭主は客の内証(=懐具合)を見立てけるが第一、それぞれに世を渡る業をかし。さる程に女郎買ひ、さんごじゅの緒じめさげながら、この里やめたるは独りもなし(=女郎買いをする者で、珊瑚珠の根付を売り捌かないうちに廓通いを止めたものは誰もいない)。手がみえて(=不始末が表れて)是非なく身を隠せる人、そのかぎりなき中にも、凡(およそ)万人のし連れる色道のうはもり(=上盛=第一人者)、なれる行末(=成れの果て)あつめてこの外になし。これを大全(=もれなく編集した書物)とす。」 |