浮世絵 
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 歌川派のの浮世絵師 1


 歌川豊春 

 歌川豊春(うたがわとよはる)は享和20年(1735)生まれとされるが確証はない。当初京都に上って狩野派の絵師に学び、宝暦のころ(1751〜)江戸で鳥山石燕に学んだとされるが、これも確証はない。文化11年(1814)79歳で亡くなっているので、相当長い間作画活動を続けていたと思われるが、残された作品はあまり多くないようだ。これは裕福な家庭の入り婿となり、生活のために励んで絵を描く必要がなかった為だといわれている。
 豊春の業績で特筆されるのは”浮絵”の技法を完成させたこと。浮絵は西洋の透視画法を用いた浮世絵のことで、奥村政信が始めて、西村重長が受け継ぎ、豊春がこれを完成させたといわれている。また、豊春の門人から豊国、豊広という巨匠が生まれ、さらに両巨匠の門人からは国貞、国安、国直、広重、国芳など多くの優秀な浮世絵師が輩出している。

 歌川豊国 

  豊国は明和6年(1769)木彫りの人形師、倉橋五郎兵衛の子として生まれる。幼少のころから絵を描くことが好きで、父の仕事の関係で知り合いであった歌川豊春の門に入って浮世絵を学ぶ。天明6年(1786)18歳の時に黄表紙の挿絵を描いて浮世絵界にデビュー。以後寛永期にかけて主に挿絵画家として力量を発揮し評価を得る。またこの間の寛政2、3年(1790〜91)ごろには美人画を出版して評判を得ている。
 豊国の画風は当初は豊春の模倣であったが、次第に鳥居清長や喜多川歌麿などの画風を取り入れ、それを自己流にこなして常に時代に合った流行浮世絵師として存在感を発揮する。豊国が最も技量を発揮して作画を続けたのは寛政期だという。文化文政に至って作画の力は衰え、晩年には豊国の作品は弟子の代筆であるとも言われた。

 歌川豊広 

 歌川豊広(うたがわとよひろ)は安永3年(1774)江戸で生まれるが生い立ちなどはよくわかっていない。豊春の門人で、初代豊国とは同時期の同門。天明8年(1788)頃から活躍を始める。豊春の門人の中で豊広は豊国に次いで技量が秀でていたとされるが、華やかな美人画や役者絵を多く描いた豊国と比べ豊広の美人画は面長で少々陰のある寂しげな印象を与える。その所為か豊広は役者絵や美人画はあまり描かなかった。主として黄表紙などの版本の挿絵が活躍の中心であり、特に当時流行した南仙笑楚満人の仇討ち物の挿絵を多く描いている。また曲亭馬琴の作品の挿絵も多い。豊広の弟子に名所画、風景画で大成し東海道五十三次のヒット作品を生んだ広重がいる。文政12年(1830)56歳で亡くなる。

 歌川国貞 

 歌川国貞は初代豊国の門人。天明6年(1786)江戸本所、材木問屋の家に生まれる。本名は角田庄蔵、後に肖造と改める。15歳の頃に豊国の門に入る。門人の中では別格の技量を発揮して師匠を超えるほどの存在感を得ていた。五渡亭、香蝶楼など、多くの号を使用。弘化元年(1844)には三代目豊国を襲名する。大量の作品を制作し、その数は一万点を超えるほどで浮世絵師の中で最も多い。
 国貞の美人画は面長で、やや猫背の姿が特徴。多作であることもあり、作画は創作性に乏しくマンネリ化した表現に陥っていることから後世美術界の評価は芳しくないようだ。

 三代豊国 

 初代豊国は文政8年(1825)に死去。二代目豊国は豊国の養子になった豊重が継ぐ。技量にすぐれた多数の先輩門人を飛び越えての襲名には多方面から不評の声があったようだ。その二代目豊国は天保6年(1835)に死去する。(二代目を返上して、浮世絵界から身を引いたとの説もある)
 弘化元年(1844)になり国貞は「国貞改め二代目豊国」と記した浮世絵を多数販売。豊重の「二代目豊国」を無視した襲名は二代目豊国への怨念が感じられる。豊国を襲名した国貞は元治元年(1865)に89歳で死去するまで精力的に作画活動を続けた。

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 歌川国丸 

 歌川国丸(うたがわくにまる)は寛政5年(1783)川越で生まれたとされるが、出生地については確証がない。初代豊国の門人で、国貞を別格として国直、国安とともに豊国門人三羽烏と称された。役者絵、美人画などの錦絵も描いているが主な活躍の舞台は絵草紙(合巻ものなど)の挿絵であったようだ。文政12年(1829)37歳の若さで亡くなる。 

 歌川国直 

 歌川国直(うたがわくになお)は寛政5年(1793)に信濃国で生まれたとされるが異説もある。姓は吉川で名は鯛蔵といった。江戸に出て初代豊国の門人となる。文化9年((1812)に式亭三馬作の合巻本「昔話丹前風呂」の挿絵を描いたのがデビュー作と推定される。国直の主な活躍場所は合巻本や読本の挿絵であったようで、三馬をはじめ十返舎一九や為永春水の作品の挿絵を多く描いている。
 初代豊国の門人の中では国貞を別格として「国安」「国丸」ともに豊国門人三羽烏と称されてもいた。また豊国の門人で弟弟子になる「国芳」の面倒をよく見ていたという。一説によれば国芳は豊国の門人ではなく、国直の門人であったという説もある。寛永7年(1854)に亡くなる。62歳または60歳で生涯を終える。 

 歌川国安 

 歌川国安は安政6年(1794)に生まれたとされるが出自等は分かっていない。初代豊国の門人であるが、文化5年(1808)国安が14歳ころに描いた役者絵に「豊国門人国安」の落款があることから、その時までには入門していたことになる。また当初は師匠のもとに寄宿していたとされるので生家に事情があってのことかもしれない。また一時的に”故あって”画名を「西川安信」に改名したこともあったが、その理由もよくわからない。画名変更は短期間で、すぐに元の国安に戻ったようだ。
 天保3年(1832)39歳の若さで病死する。病名は”瘡毒(梅毒)"であったという。

 歌川国満 

 生年、没年共に分かっていない。通称を熊蔵と言った。豊国の門人で、絵草紙の挿絵を多く描いた。一翁斎と号し、国満を「国光」とも記した。

 歌川豊重 

 歌川豊重(うたがわとよしげ)は享和2年(1802)に生まれ天保6年(1835)に34歳で亡くなったとされるが異説もある。初代の歌川豊国の門人で、当初は国重(くにしげ)と名乗ったが、のちに豊重を名乗る。初代豊国の養子となって、文政8年(1825)豊国の死去によって2代目豊国を襲名する。豊重が豊国の養子になった経緯や豊国を襲名した経緯については江戸時代から様々な伝承がある。 現在では国重と豊重は同一人物であるとする説が定着しているが、以前には別人説が主流であった時期もある。天保6年(1835)に2代豊国が死去し(死んだのではなく豊国の号を返上して浮世絵師を引退したとの説もある)、弘化元年(1844)に国貞が”国貞改め2代豊国”と署名し豊国を襲名したのは一門の中で豊重(2代豊国)を認めず無視する空気があったものと思われる。

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 歌川国芳 

 歌川国芳(うたがわ くによし)は寛政9年(1798)江戸日本橋の染物屋を家業とする家に生まれる。幼少のころから絵筆を執り、文化8年(1811)に15歳で豊国の門人となる。文化11年(1814)に初作となる合巻「御無事忠臣蔵」の挿絵を描いている。文政10年(1827)に刊行した「水滸伝」シリーズが好評で、武者絵の国芳と評されるようになる。
 天保年間(1830〜1843)になると水野忠邦による「天保の改革」が浮世絵、錦絵界にも及び、作画活動が厳しく制限されるようになる。国芳はこれに逆らうように風刺風の浮世絵を発表し、世間からは好評を受けるが、度々奉行所の呼び出しを受けている。幕末になり中風を患い、文久元年(1861)に65歳で死去する。

 歌川広重 

 歌川広重(うたがわひろしげ)は寛政9年(1797)江戸定火消同心安藤源右衛門の長男として八代洲河岸の定火消屋敷で生まれる。幼名を徳太郎といった。国芳とは同年である。
 広重は文化6年(1809)に母を亡くし、父の隠居に伴い火消同心職を継ぐがその年に父も亡くなる。小禄の身であり絵で家計を助ける目的で文化8年(1811)に歌川豊広の門に入る。習作期の浮世絵師の常として役者絵のほか美人画や武者絵、その他に狂歌本や合巻の挿絵などを描いている。文政11年(1828)師の豊広が亡くなり、以降広重は風景画を中心とした作画に専念する。天保4年(1833)に保永堂から刊行された東海道五十三次は大ヒットとなり、名所絵(風景画)浮世絵師としての地位を不動のものにする。安政5年(1858)コレラが原因で52歳の生涯を終える。

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