歌川豊重(うたがわとよしげ)は享和2年(1802)に生まれ天保6年(1835)に34歳で亡くなったとされるが異説もある。初代の歌川豊国の門人で、当初は国重(くにしげ)と名乗ったが、のちに豊重を名乗る。初代豊国の養子となって、文政8年(1825)豊国の死去によって2代目豊国を襲名する。
豊重が豊国の養子になった経緯や豊国を襲名した経緯については江戸時代から様々な伝承がある。 現在では国重と豊重は同一人物であるとする説が定着しているが、以前には別人説が主流であった時期もある。また養子となった経緯も、豊国との血縁説、豊国の娘(隠し子であったという説、あるいは豊国の妾という説さえある)との婚姻説、豊国死後にその妻に入夫したという説などが江戸時代から伝わっていた。こうしたマイナスイメージとも思える伝承があるのも豊重が初代豊国の門人の中で最も技量に優れた門人ではなかったと、当時の浮世絵界ではあまり良くは評価されていなかった所為でもる。初代豊国の門人には「国貞」「国安」「国直」「国芳」など豊重の技量を凌ぐそうそうたるメンバーが存在し、それら先輩の門人を押しのけて若輩者(襲名時は24歳頃か)が2代目豊国を襲名したことに一門ばかりでなく各方面からの疑問があったことが推測される。天保6年に2代豊国が死去し(死んだのではなく豊国の号を返上して浮世絵師を引退したとの説もある)、弘化元年(1844)に国貞が”国貞改め2代豊国”と署名し豊国を襲名したのも一門の中に豊重(2代豊国)を認めていない無視する空気があったものと思われる。
しかしながらこのサイトに掲載した文政9年(1826)に西村屋与八から出版された「笹色猪口暦手」の序文の附言に”この冊子文政甲甲(文政7年・1824)冬10月前編三冊草稿なりて画ける者故豊国なり 乙酉(文政8年・1825)秋9月後編の稿を脱して今の豊国が筆に継ぐ”と記されている。版元の西村屋与八は当時の江戸の出版界では大手であり、豊重が2代目豊国を襲名したことを認めている。また絵が特段に劣っているとも思えない(素人の私の判断だが)。初代豊国の晩年には豊重が代筆した作品もあるともいわれる。 |