黄表紙(きびょうし)を一口で言えば大人向けの漫画本である。文学史的な分類では黄表紙は安永4年(1775)から文化3年(1806)までの32年間に出版された草双紙を言う。黄表紙以前の草双紙は子供向けの「赤本」にはじまり、やがて武勇談や敵討物、恋愛物など少年向けや大人向けの「黒本」「青本」へと変わってゆく。黄表紙はこうした黒本、青本の延長線上にあるものの、安永4年(1775)に出版された恋川春町画作による「金々先生栄花夢」は知的な成人読者にも耐えられる草双紙として評判を得て、以後これら戯作を黄表紙と称するようになった(ただし当時は表紙の色が類似する青本と区別されていなかったようだ)。黄表紙の呼称は赤本、黒本、青本と同じく表紙の色によるもので、黒本、青本と同じく一冊は10ページ(5丁)で黄表紙は2〜3冊で一編とするものが多かった。
挿絵を描く浮世絵師は黒本、青本時代の画風をを引き継いだ鳥居清経や富川房信(吟雪)がやがて消え去り、鳥居風を脱した鳥居清長や北尾派の祖・北尾重政、歌川豊国、豊広に加え北川豊章(喜多川歌麿)、北尾政美、勝川春朗(葛飾北斎)、北尾政演(山東京伝)などの新人も台頭してくる。
恋川春町の「金々先生栄花夢」は、ストーリーそのものは中国の邯鄲説話を基にした陳腐なものであったが、これが黄表紙の祖とされるまで評価されたのは庶民的な草双紙にもっともらしい漢文調の序文をつけ、主人公に遊里遍歴をさせるなど当時流行していた洒落本の雰囲気を取り入れ、挿絵も勝川春章風の画風にして当時の時代感覚を巧みに演出していることとされる。こうした時代感覚を取り入れ「パロディ」や「うがち」などの風刺的な発想をもった黄表紙も時代によって変化してゆく。
天明時代、田沼意次の政権下の自由主義的、享楽的な世相の中で黄表紙は発展をとげる。しかし天明6年(1786)に田沼意次が失脚し、松平定信による寛政の改革によって黄表紙の持つ洒脱な機知や軽快な風刺が影をひそめる。代わって教訓性の強い作風に変化する。さらに、忠孝、文武奨励、勧善懲悪を主題とした敵討物、剛勇談などが中心となる。
敵討物が全盛となるとストーリーの展開が長くなり2〜3冊のページ数で完結するには足りなくなる。6冊あるいはそれ以上のぺージ数を必要とする作品が多くなり、このため何冊かを合冊して出版するようになる。文化4年以降、こうした傾向によって黄表紙は消え去り「合巻」の時代へと移っていく。 |