浮世絵 江戸の祭・風俗(江戸の華) |
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江戸の華 (えどのはな) |
火事と喧嘩は江戸の華というが、江戸時代でなく現代なら喧嘩・火事を「華」に例えれば四方八方から非難の礫が飛んできそうだ。江戸に暮らしていた人たちはどんな思いでいたのだろうか。 木でできた家に住んで灯りは蝋燭か油。煮炊きや暖房はマキと炭ならどんなに用心していても火事が起こる確率は高い。高位者の武家屋敷ならともかく下級武士や町人は家屋が密集した地域に住んでいたようだから、いったん火事が起きると人的被害も大きくなる。 江戸時代、江戸の町は何度も何度も火災の被害を受けている。江戸の町のほとんどの家屋が焼失するような大火も何度かあった。それでも、逃げ出すことなくその都度復興を遂げている。私なら真っ先に逃げ出すだろうが、そうしなかった江戸の町の人たちは心が強かったのだろうか。火消人足は町のヒーローにもなっていたようだし、火事が収まれば躊躇なく跡片付けに走り、元の生活を取り戻すことに汗を流している。そうする以外に生きる方策がなかったにしても江戸の人々の底力を感じさせられる。 現状から抜け出せない諦めが火事を「華」と呼んで粋がっていたのだろうと、そんな先入観を抱いていたが、江戸の人々の、どん底にあっても生きる、そして楽しむという執念が現代人とは一桁も二桁も上回っているように思うようになった。 |
加賀鳶の図 絵:歌川豊国 |
出版年: 版元: 加賀藩大名火消の行列図 |
江戸の華 絵:歌川広重 |
出版年: 版元: 歌川広重は元定火消の同心。自身の体験による火事場の絵図 |
目黒行人坂火事絵巻 | 出版年: 版元: 江戸三大大火といわれる明和9年(1772)に起きた火災を描いた絵巻。 |
鎮火安心図巻 絵:鬼蔦斎 |
出版年:嘉永7年(1854) 絵巻 1巻 |
むさしあぶみ 絵・作:新井了意 |
出版年:寛文1年(1661) 版元: 明暦3年(1657)に起きた明暦の大火(振袖火事)を物語風に描く。 |
江戸大地震火事場の図 | 出版年: 版元: 安政2年(1855)江戸の町に大きな被害をもたらした安政の大地震を描いた絵図、かわら版など |
江戸の花 夜の賑い 他 絵:歌川芳艶 歌川芳綱 |
出版年:万延1年(1860) 版元:海老屋林之助 火消人足を描いた浮世絵 他 |
泰平纏一覧 絵:宮城玄魚 |
出版年:安政3年(1856) 版元:笑寿屋庄七 火消いろは48組と本所深川16組の纏・袢纏の絵図 |
纏尽くし | 出版年:安政5年(1858) 版元: 火消いろは48組と本所深川16組の纏持絵姿 |
伊呂波組纏鑑 絵:叟斎了吉 |
出版年:慶応2年(1866) 版元:伊勢屋庄之助 火消いろは48組と本所深川16組の纏・袢纏の絵図 |
江戸の町に幕府直轄の常設の消防組織が配置されたのは慶安3年(1650)のこと。幕府は4千石クラスの旗本2名を火消役に任命。この組織は大名家が組織する「大名火消」、町人が組織する「町火消」と並んで「定火消(じょうびけし)」 と呼ばれた。旗本の火消役に与力・同心が付属し、その配下に臥煙(がえん)と呼ばれる火消人足が組織された。発足当時2組の定火消であったが明暦3年(1657)に発生した明暦の大火の後に4組に増設される。1組は約130人程であったようだ。守備範囲は江戸城に隣接した地域で、麹町、お茶の水、佐内坂、飯田町に火消屋敷が置かれていた。定火消は元禄8年(1696)には15組に拡大され火消屋敷は江戸城を取り巻くように配置されるが、宝永年間(1704~)には10組に改変される。改変後は「十人火消」とも呼ばれた。 大名家が組織する「大名火消」は大名の藩邸を守備する「各自火消」と呼ばれる自衛消防隊として発足するが、藩邸付近で発生した火事にも出動するようになり、その範囲によって三丁、五丁、八丁火消と呼ばれた。 旗本の火消組織として享保7年(1722)に飛火防組合(とびひふせぎくみあい)65組が組織される。 町火消は享保の改革により享保3年(1718)に幕府の命により組織される。最初は20~30町を一単位とした火消組合が組成される。享保5年(1720)には「いろは47」文字に「ん」をいれた48組に改編される。いろは文字のうち「へ、ら、ひ、ん」は語呂が悪いとして「百、千、万、本」の組名に変えた。「いろは組」は隅田川の西地区を担当し、これとは別に本所・深川を担当する16組が組織される。町火消の人足総数は1万人ほどであったようです。 幕末近くになると大名火消、定火消は縮小されて町火消が消火活動の中心となっていた。 |
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