浮世絵 江戸の祭・風俗 |
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江戸の祭・風俗 |
正確な数字ではないかもしれないが、江戸の町の人口は武家50万人、町人50万人合わせて100万人といわれている。江戸時代を通じて日本の人口は1千7百~2千万人ともいわれているので約5~6%の人口が江戸に集中している。現在東京23区の人口は約1千万人。全国人口が1億2千万人とすれば8.3%ほど。現在ほどではないが江戸時代からすでに人口が集中していたようだ。しかも家康が江戸を拠点とする以前は人口が5万人にも満たないほどであったようだから、その発展ぶりは驚異的なものだ。また徳川幕府の直轄領は約450万石、直臣の旗本の知行地が約300万石。合わせて約750万石。当時の全国石高が2700万石~2800万石とされているので26~27%を占めている。徳川幕府が圧倒的な財政基盤を持っていたことがうかがわれる。これだけの富が江戸の町に集まっていれば、たび重なる災害や政治的な危機を乗り越えて発展を維持できたのも必然のこととも思われる。 現在の尺度で眺めれば人々の暮らしは決して豊かとはいえるものではないが、武家、町人を問わず、生きるという懸命さ、生きることを楽しむ様は現代人にも勝るエネルギーを感じる。掲載した浮世絵・絵草紙は必ずしも実情を写したものではないかもしれないが、遠き先祖の生き様に多少なりとも触れることができるのではと思います。 |
江戸の祭 | 江戸の華 | 江戸の四季 | 江戸の賑い | |||
江戸の祭は数多いが、三大祭といわれるのは山王祭、神田祭、深川祭。いずれも現在まで続いている。今も昔も変わらぬ熱気が伝わってくる。 | 火事と喧嘩は江戸の華といわれる。江戸時代約260年の間に火災は大小合わせて1700件ほどもあった。火事場の火消人足、纏持は町のヒーローでもあった。 | 江戸の町には広大な自然があった。春には梅・桜見物。夏には両国の川開きで花火や納涼船を楽しんだ。秋は月見に紅葉狩り。冬は雪見と飽きることがない。 | 百万都市江戸。巨大な人口を擁した都市には、それに相応しい賑いがある。江戸三大盛り場と称された「日本橋」「浅草」「両国」などの賑いを集めてみました。 |
江戸時代 略年表 |
年号 | 西暦 | 将軍 | |
慶長 5年 | 1600 | 9月、関ヶ原の合戦。家康勝利で覇権が確定。豊臣秀頼は60万石の大名に縮小。 | |
慶長 6年 | 1601 | 1月、家康、東海道に53次の宿場を定める。問屋、伝馬を常置。 | |
慶長 7年 | 1602 | ||
慶長 8年 | 1603 | 家康 | 2月、家康、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。12月、江戸日本橋初めて架設される。 出雲阿国 京都で歌舞伎踊を演ずる。 |
慶長 9年 | 1604 | 1月、幕府 松前慶広に蝦夷地交易の特権を与える。 | |
慶長10年 | 1605 | 秀忠 | 4月、家康は秀忠に将軍職を譲る。 |
慶長11年 | 1606 | ||
慶長12年 | 1607 | 2月、出雲阿国 江戸で歌舞伎踊を演ずる。5月、朝鮮通信使 初めて江戸にきて将軍に国書渡す。7月、家康 駿府城へ移る。 | |
慶長13年 | 1608 | ||
慶長14年 | 1609 | 5月、幕府 島津藩の琉球支配を認める。8月、オランダに通商渡航を許可。平戸に商館を建設。 | |
慶長15年 | 1610 | 8月、島津家久 琉球王・尚寧をともない駿府で家康、江戸で秀忠に謁見する。 | |
慶長16年 | 1611 | ||
慶長17年 | 1612 | 3月、幕府 キリシタンを禁じ京都の教会を壊す。 | |
慶長18年 | 1613 | 6月、公家諸法度を定める。9月、伊達政宗の遣欧使節支倉常長出帆。幕府 キリスト教を禁ずる。 | |
慶長19年 | 1614 | 10月、家康、大阪征伐の動員令。12月に和議(大坂冬の陣)このころ伊勢踊流行 |
慶長20年(1615)7月13日、元和元年に改元 | |||
元和 1年 | 1615 | 秀忠 | 4月、家康、大阪征伐の動員令。5月大阪城落城(大坂夏の陣)豊臣家滅亡 閏6月、幕府 一国一城令を出す。7月、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗諸本山法度を定める。 |
元和 2年 | 1616 | 4月、家康死去。7月、明船以外の外国交易船の寄港地を平戸・長崎に限定。 | |
元和 3年 | 1617 | ||
元和 4年 | 1618 | 10月、日本橋葺屋町で遊郭(吉原)開業する。 | |
元和 5年 | 1619 | ||
元和 6年 | 1620 | 3月、幕府米蔵を浅草に建設。 6月 徳川和子 入内。 | |
元和 7年 | 1621 | この頃伊勢踊流行る | |
元和 8年 | 1622 | 外様大名の妻子を江戸に置かせる。 | |
元和 9年 | 1623 | 家光 | 7月、秀忠は将軍職を家光に譲り、西の丸へ移り隠居 |
元和10年(1624)2月30日、寛永元年に改元 | |||
寛永 1年 | 1624 | 家光 | 2月、初代中村勘三郎 猿若座を創設。12月、家光 朝鮮信使を謁見。 |
寛永 2年 | 1625 | 1月、日本橋に魚市場開設。11月、天海 上野に東叡山寛永寺創建。 | |
寛永 3年 | 1626 | 8月、秀忠・家光上洛 9月に二条城で天皇を接待。 | |
寛永 4年 | 1627 | 11月、富士山噴火 江戸に降灰。 家光、高砂人(台湾)を引見。 | |
寛永 5年 | 1628 | 1月、富士山噴火 周辺に被害。 7月、江戸で大地震。 | |
寛永 6年 | 1629 | 3月、江戸市中に辻番所設置。 幕府 女浄瑠璃 女歌舞伎を禁止。 | |
寛永 7年 | 1630 | 6月、12月、江戸で大地震。12月林羅山 上野忍岡に学寮 昌平坂学問所の基 | |
寛永 8年 | 1631 | 3月、浅間山噴火 江戸に降灰。この年江戸で地震多発。 | |
寛永 9年 | 1632 | 12月、大名監視の目的で大目付4名置く。 | |
寛永10年 | 1633 | 2月、奉書船貿易以外の海外渡航を禁止(鎖国の前触れ) | |
寛永11年 | 1634 | 3月、江戸堺町で村山座開設 歌舞妓興行。 5月、長崎で出島の工事始まる。 | |
寛永12年 | 1635 | 5月、貿易船入港は長崎に限定。日本人の海外渡航、帰国を禁止。 | |
寛永13年 | 1636 | 6月、寛永通宝(一文銭)鋳造を始める。金一両に銭4貫文(4千枚) | |
寛永14年 | 1637 | 10月、島原の乱起こる。 | |
寛永15年 | 1638 | 2月、島原の乱鎮圧される。11月、将軍に代わり一切の政務を裁断する大老職を置く | |
寛永16年 | 1639 | 7月、ポルトガル船の来航禁止。(鎖国の完成) | |
寛永17年 | 1640 | ||
寛永18年 | 1641 | 4月、オランダ商館を平戸から長崎出島に移す。幕府 風流踊を禁止。 | |
寛永19年 | 1642 | この年、全国的に大飢饉 飢饉は寛永11年ごろから慢性的に続いていた。 | |
寛永20年 | 1643 |
寛永21年(1644)12月16日、正保元年に改元 | |||
正保 1年 | 1644 | 家光 | 6月、琉球国使を引見。 幕府 清に圧迫されていた明の援兵要請を断る。 |
正保 2年 | 1645 | 7月、江戸市中のかぶき者を取り締まる。 | |
正保 3年 | 1646 | ||
正保 4年 | 1647 |
正保5年(1648)2月15日、慶安元年に改元 | |||
慶安 1年 | 1648 | 家光 | |
慶安 2年 | 1649 | 2月、農民の生活を規制する「慶安御触書」出される。 町人に倹約令。 | |
慶安 3年 | 1650 | この頃伊勢お陰参り流行 。 | |
慶安 4年 | 1651 | 家綱 | 4月、家光死去。家綱が継ぐ。7月、由井正雪の乱起こる。 |
慶安5年(1652)9月18日、承応元年に改元 | |||
承応 1年 | 1652 | 家綱 | 1月、江戸から「かぶき者」追放。6月、若衆歌舞伎を禁止。この年江戸で辻斬りが横行。牢人取り締まり強化。 旗本奴、町奴が流行。 |
承応 2年 | 1653 | 3月、野郎歌舞伎を許可。 | |
承応 3年 | 1654 | 6月、玉川上水完成 12月、利根川本流の流路を銚子に付け替えする工事完了 |
承応4年(1655)4月13日、明暦元年に改元 | |||
明暦 1年 | 1655 | 家綱 | 10月、江戸市中法度を公布。 |
明暦 2年 | 1656 | このころ湯女風呂流行。 | |
明暦 3年 | 1657 | 1月、明暦の大火(振袖火事)江戸の都市大改造着手。藁葺屋根を禁ずる。武家屋敷、寺社敷地の割替え実施。吉原は浅草奥「新吉原」へ移転。7月、旗本水野十郎左衛門(旗本奴)が幡随院長兵衛(町奴)を刺殺。 |
明暦4年(1658)7月23日、万治元年に改元 | |||
万治 1年 | 1658 | 家綱 | 9月、定火消制度創設。 |
万治 2年 | 1659 | 12月、両国橋完成 | |
万治 3年 | 1660 | 5月、森田勘弥 木挽町に森田座開く 歌舞伎興行。 |
万治4年(1661)4月25日、寛文元年に改元 | |||
寛文 1年 | 1661 | 家綱 | このころ金平浄瑠璃流行 |
寛文 2年 | 1662 | 大阪に竹田芝居創設 | |
寛文 3年 | 1663 | 5月、殉死の禁止令。このころ三都に定飛脚問屋できる。 | |
寛文 4年 | 1664 | ||
寛文 5年 | 1665 | ||
寛文 6年 | 1666 | ||
寛文 7年 | 1667 | ||
寛文 8年 | 1668 | ||
寛文 9年 | 1669 | 7月、アイヌ・シャクシャイン 松前藩と戦闘。10月鎮圧される。 | |
寛文10年 | 1670 | ||
寛文11年 | 1671 | ||
寛文12年 | 1672 | 河村瑞賢が西廻り航路を開く。 |
寛文13年(1673)9月21日、延宝元年に改元 | |||
延宝 1年 | 1673 | 家綱 | 三井高利江戸で越後屋呉服店を開く。市川団十郎、中村座で初舞台。 |
延宝 2年 | 1674 | ||
延宝 3年 | 1675 | ||
延宝 4年 | 1676 | ||
延宝 5年 | 1677 | 菱川師宣「江戸雀」刊。 | |
延宝 6年 | 1678 | 坂田藤十郎、大阪で「和事」を演じる。 | |
延宝 7年 | 1679 | 白井権八 辻斬りなどの罪で処刑される。後に歌舞妓・浄瑠璃の題材となる。 | |
延宝 8年 | 1680 | 綱吉 | 5月、家綱死去。綱吉が将軍職を継ぐ。 |
延宝9年(1681)9月29日、天和元年に改元 | |||
天和 1年 | 1681 | 綱吉 | 12月、老中堀田正俊 大老に就く。 |
天和 2年 | 1682 | 9月、井原西鶴「好色一代男」刊。 12月、「八百屋お七」の大火 | |
天和 3年 | 1683 | 三井高利 江戸で両替商開く。 |
天和4年(1684)2月21日、貞享元年に改元 | |||
貞享 1年 | 1684 | 綱吉 | |
貞享 2年 | 1685 | ||
貞享 3年 | 1686 | 9月、旗本奴「神祇組」2百余人追放。首謀者11名を斬罪。 | |
貞享 4年 | 1687 | 1月、生類憐みの令公布。 |
貞享5年(1688)9月30日、元禄元年に改元 | |||
元禄 1年 | 1688 | 綱吉 | 11月、柳沢保明(吉保) 側用人に登用。 |
元禄 2年 | 1689 | 3月、松尾芭蕉「奥の細道」の旅に出る。 | |
元禄 3年 | 1690 | 7月、上野の林家にあった孔子廟を昌平坂に移転(湯島の聖堂)。 このころ江戸で浮世草子流行。 |
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元禄 4年 | 1691 | 東海道・多摩川六郷の橋を撤去して渡船とする。 | |
元禄 5年 | 1692 | ||
元禄 6年 | 1693 | この頃の江戸町人の人口35万3千人。(武家は40~50万人か) | |
元禄 7年 | 1694 | 出版統制強化「鹿の巻筆」絶版処分。柳沢吉保、川越藩主7万2千石。老中格となる | |
元禄 8年 | 1695 | 8月、荻原重秀による金銀貨改鋳。幕府財政逼迫。 | |
元禄 9年 | 1696 | ||
元禄10年 | 1697 | ||
元禄11年 | 1698 | 永代橋が完成。 柳沢吉保 老中の上位とされる。 | |
元禄12年 | 1699 | ||
元禄13年 | 1700 | ||
元禄14年 | 1701 | 3月、赤穂藩主浅野長矩 江戸城中で吉良義央に刃傷。 | |
元禄15年 | 1702 | 12月、赤穂浪士 吉良邸討ち入り。 | |
元禄16年 | 1703 | 11月、江戸大地震 火災により神田明神、湯島の聖堂など焼失。 近松門左衛門「曽根崎心中」初演。 |
元禄17年(1704)3月13日、宝永元年に改元 | |||
宝永 1年 | 1704 | 綱吉 | 2月、初代市川団十郎、舞台で生島半六に刺殺される。 |
宝永 2年 | 1705 | ||
宝永 3年 | 1706 | ||
宝永 4年 | 1707 | 10月、全国的に地震多発、被害大。 11月、富士山大噴火、宝永山できる。 | |
宝永 5年 | 1708 | 1月、富士山噴火 11月、浅間山噴火。この年各地で災害多発。 | |
宝永 6年 | 1709 | 家宣 | 1月、綱吉死去。6月に家宣が将軍に就く。新井白石幕臣に登用。生類憐みの令廃止 |
宝永 7年 | 1710 |
宝永8年(1711)4月25日、正徳元年に改元 | |||
正徳 1年 | 1711 | 2月、新井白石 朝鮮通信使の待遇簡素化。国書に将軍を日本国王と記す。 | |
正徳 2年 | 1712 | 家継 | 9月、勘定奉行荻原重秀罷免。 10月、家宣死去 五歳の家継が将軍に就く。 |
正徳 3年 | 1713 | ||
正徳 4年 | 1714 | 2月、江島事件で山村座閉鎖。5月、金銀貨改鋳(金銀の品位を高める) | |
正徳 5年 | 1715 | 近松門左衛門「国姓爺合戦」初演 |
正徳6年(1716)6月22日、享保元年に改元 | |||
享保 1年 | 1716 | 吉宗 | 4月、将軍家継8歳で他界。5月吉宗が将軍職に。享保の改革始まる。 |
享保 2年 | 1717 | 大岡忠相、町奉行に就く。 | |
享保 3年 | 1718 | 町火消の制度を定める。 | |
享保 4年 | 1719 | 10月、吉宗朝鮮通信使の待遇を元に戻し、国書に将軍を「大君」と記す。 | |
享保 5年 | 1720 | 8月、江戸町火消いろは組を創設。 | |
享保 6年 | 1721 | 8月、評定所門前に目安箱設置。小石川薬園開設。 | |
享保 7年 | 1722 | 12月、小石川養生所開設。 出版統制 猥雑書の禁止、心中物禁止。 | |
享保 8年 | 1723 | 6月、下級臣の幕府役職者登用のための足高制実施。 火の見櫓の設置を義務化。 | |
享保 9年 | 1724 | ||
享保10年 | 1725 | ||
享保11年 | 1726 | 江戸浄瑠璃の河東節が流行る。 | |
享保12年 | 1727 | ||
享保13年 | 1728 | ||
享保14年 | 1729 | 4月、天一坊事件(吉宗の御落胤騒動)起こる。首謀者は獄門。 | |
享保15年 | 1730 | ||
享保16年 | 1731 | 2月、旗本に3年間の倹約令。この年米価下落。 | |
享保17年 | 1732 | この年全国的に飢饉広がる。享保の大飢饉。米価高騰。 | |
享保18年 | 1733 | 1月、米価高騰江戸で米騒動 打ちこわし起こる。一転、秋には豊作で米価下がる | |
享保19年 | 1734 | ||
享保20年 | 1735 |
享保21年(1736)4月28日、元文元年に改元 | |||
元文 1年 | 1736 | 吉宗 | |
元文 2年 | 1737 | 11月、吉宗 飛鳥山に桜を植える。公園として開放 | |
元文 3年 | 1738 | ||
元文 4年 | 1739 | 5月、ロシアの船団が安房沖に現れる。 | |
元文 5年 | 1740 | この年江戸で痘瘡流行る。 |
元文6年(1741)2月27日、寛保元年に改元 | |||
寛保 1年 | 1741 | 吉宗 | 8月、江戸 関東 信濃で大洪水。 |
寛保 2年 | 1742 | ||
寛保 3年 | 1743 |
寛保4年(1744)2月21日、延享元年に改元 | |||
延享 1年 | 1744 | 家重 | 9月、吉宗 将軍職を長男家重に譲り隠居 |
延享 2年 | 1745 | ||
延享 3年 | 1746 | 竹田出雲ら「菅原伝授手習鑑」初演 | |
延享 4年 | 1747 |
延享5年(1748)7月12日、寛延元年に改元 | |||
寛延 1年 | 1748 | 家重 | 竹田出雲ら「仮名手本忠臣蔵」初演 |
寛延 2年 | 1749 | ||
寛延 3年 | 1750 | 幕府 農民の強訴、徒党。逃散を厳禁する。 |
寛延4年(1751)10月27日、宝暦元年に改元 | |||
宝暦 1年 | 1751 | 家重 | 6月、吉宗死去。 |
宝暦 2年 | 1752 | ||
宝暦 3年 | 1753 | ||
宝暦 4年 | 1754 | 閏2月、山脇東洋ら京都で死体を解剖する。このころ松前藩、千島クナシリに「場所」を開く。 | |
宝暦 5年 | 1755 | ||
宝暦 6年 | 1756 | 5月、大岡忠光側用人となる。 | |
宝暦 7年 | 1757 | ||
宝暦 8年 | 1758 | 9月、田沼意次1万石に加増されて評定所に出座する。 | |
宝暦 9年 | 1759 | ||
宝暦10年 | 1760 | 家治 | 5月、家重 病気を理由に世子家治に将軍職を譲り、隠居して大御所と名乗る 。 |
宝暦11年 | 1761 | ||
宝暦12年 | 1762 | ||
宝暦13年 | 1763 |
宝暦14年(1764)6月2日、明和元年に改元 | |||
明和 1年 | 1764 | 家治 | |
明和 2年 | 1765 | 5月、川柳撰集「柳多留」刊行開始。このころ鈴木春信錦絵(多色刷浮世絵)を創始 | |
明和 3年 | 1766 | ||
明和 4年 | 1767 | 7月、田沼意次 側用人となる。 | |
明和 5年 | 1768 | 上田秋成「雨月物語」刊。 4月、幕府 4文銭を鋳造。 | |
明和 6年 | 1769 | ||
明和 7年 | 1770 | ||
明和 8年 | 1771 | 数十年ぶりにお陰参りが流行る。 |
明和9年(1772)11月16日、安永元年に改元 | |||
安永 1年 | 1772 | 家治 | 1月、田沼意次老中に就く。 2月、江戸大火(目黒行人坂の火事) 6月、防火のために瓦屋根を強制。9月、南鐐ニ朱銀発行。二朱銀八枚で金一両 |
安永 2年 | 1773 | この年全国的に風水害多く凶作となる。 大阪江戸の飛脚問屋、東海道に28カ所の取次所を設ける。 | |
安永 3年 | 1774 | 8月、杉田玄白「解体新書」刊。10月、浅草川に大川橋(吾妻橋)架橋。 | |
安永 4年 | 1775 | 恋川春町 黄表紙「金々先生栄花夢」 刊。大評判を得る。 | |
安永 5年 | 1776 | 平賀源内 エレキテルを造る。 | |
安永 6年 | 1777 | ||
安永 7年 | 1778 | 6月、ロシア人が根室にきて交易を要求。翌年松前藩が拒絶する。 | |
安永 8年 | 1779 | ||
安永 9年 | 1780 |
安永10年(1781)4月2日、天明元年に改元 | |||
天明 1年 | 1781 | 家治 | |
天明 2年 | 1782 | 7月、幕府 印旛沼干拓を開始する。小田原で大地震、櫓三基破損。9月、江戸で暴風雨により新大橋、永代橋倒壊。 | |
天明 3年 | 1783 | 7月、浅間山大噴火。関東一円に被害。11月、田沼意知 若年寄に就く。 全国的に冷害で未曽有の凶作。大飢饉で奥羽地方では餓死者が多数出る。 |
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天明 4年 | 1784 | 3月、旗本佐野政言 田沼意知を殿中で刃傷。意知は死去。全国的に飢饉で農民流亡し農村荒廃する。 | |
天明 5年 | 1785 | 3月、伊豆諸島の青ヶ島噴火。島民の過半焼死。 | |
天明 6年 | 1786 | 家斉 | 2月、幕府 手賀沼干拓着手するが、間もなく中止。 全国的に凶作続く。 8月、田沼意次罷免。9月家治死去。家斉が将軍職に就く。 |
天明 7年 | 1787 | 米価高騰、各地で米騒動。江戸で打ち壊し起こる。6月、松平定信老中首座となる。 | |
天明 8年 | 1788 |
天明9年(1789)1月25日、寛政元年に改元 | |||
寛政 1年 | 1789 | 家斉 | 5月、クナシリ島のアイヌ反乱。松前藩が鎮圧。 |
寛政 2年 | 1790 | 2月、無宿人対策の人足寄場設置。5月、好色本の禁止。子供向け草紙の内容規制。 | |
寛政 3年 | 1791 | 4月、林子平「海国兵談」刊。 | |
寛政 4年 | 1792 | ||
寛政 5年 | 1793 | 7月、松平定信 老中を辞す。寛政改革頓挫。 | |
寛政 6年 | 1794 | ||
寛政 7年 | 1795 | ||
寛政 8年 | 1796 | ||
寛政 9年 | 1797 | ||
寛政10年 | 1798 | ||
寛政11年 | 1799 | 蝦夷交易の船頭・高田屋嘉兵衛 エトロフ島の航路開設。 | |
寛政12年 | 1800 | 4月、伊能忠敬 蝦夷地測量開始。 6月、高田屋嘉兵衛エトロフ島開拓始める。 |
寛政13年(1801)2月5日、享和元年に改元 | |||
享和 1年 | 1801 | 家斉 | ウルップ島に「天長地久大日本属島」の標識建てる。 |
享和 2年 | 1802 | 2月、東蝦夷地開拓のため蝦夷奉行(後に函館奉行)置く。 十返舎一九 「東海道中膝栗毛」初編刊。 |
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享和 3年 | 1803 | 7月、長崎にアメリカ船入港。通商を要請されたが断る。 全国に麻疹流行。 黄表紙の敵討物流行。 |
享和4年(1804)2月11日、文化元年に改元 | |||
文化 1年 | 1804 | 家斉 | 浮世絵・絵草紙の規制:天正以来の武者の姓名、紋所を描くことを禁止。一枚絵に和歌、景色の地名、役者、遊女の名を書くことを禁止。絵草紙の彩色を禁止。 |
文化 2年 | 1805 | 6月、関東地域の治安強化の為に「関東取締役出役」新設。八州廻りとも呼ばれた。 | |
文化 3年 | 1806 | 3月、江戸大火 芝泉岳寺前から出火し、浅草本願寺まで延焼。 | |
文化 4年 | 1807 | 4月、エトロフ島の番所がロシア人に掠奪される。5月、函館奉行 弘前、盛岡藩に増兵を要請。 8月、永代橋落下事故。死者約千人。 | |
文化 5年 | 1808 | 1月、会津藩1300人、仙台藩400人蝦夷地へ派兵。 | |
文化 6年 | 1809 | 6月、幕府はカラフトを北蝦夷と命名。7月、間宮林蔵はカラフトから海を渡り黒竜江(アムール川)へ。川を遡りテレンに至る。海峡を間宮海峡とする。11月松前に帰還 | |
文化 7年 | 1810 | ||
文化 8年 | 1811 | 5月、ロシア人クナシリ島に上陸し掠奪。6月、松前奉行の配下がロシア船の艦長ら8人を拘束し函館で投獄。 式亭三馬「浮世床」初編、烏亭焉馬「歌舞妓年代記」刊。 | |
文化 9年 | 1812 | 8月、ロシア 高田屋嘉兵衛を連行する。 | |
文化10年 | 1813 | 5月、先に拘束したロシア人船長ら8人と高田屋嘉兵衛を交換する。 | |
文化11年 | 1814 | 9月、曲亭馬琴「南総里見八犬伝」初編刊。市村座で清元延寿大夫が清元節を語る。 | |
文化12年 | 1815 | ||
文化13年 | 1816 | 10月、イギリス船が琉球那覇に入港し通商を求める。 | |
文化14年 | 1817 | 9月、イギリス船浦賀に来航。 |
文化15年(1818)4月22日、文政元年に改元 | |||
文政 1年 | 1818 | 家斉 | 5月、イギリスとの通商を拒否する。 |
文政 2年 | 1819 | 1月、水戸藩主「大日本史」紀伝45冊献呈。12月、小林一茶「おらが春」脱稿 | |
文政 3年 | 1820 | ||
文政 4年 | 1821 | 6月、松前奉行を廃止。12月、幕府 蝦夷地の直轄を止め松前藩に還付。 | |
文政 5年 | 1822 | 西日本でコレラ流行。 | |
文政 6年 | 1823 | ||
文政 7年 | 1824 | ||
文政 8年 | 1825 | 2月、異国船打ち払い令を出す。 鶴屋南北「東海道四谷怪談」中村座で初演 | |
文政 9年 | 1826 | ||
文政10年 | 1827 | ||
文政11年 | 1828 | 8月、シーボルト事件。帰国時に国禁の地図を所持していたため出島に幽閉。翌年9月に日本追放。 | |
文政12年 | 1829 | 3月、文政の大火。死者1千9百人。 |
文政13年(1830)12月10日、天保元年に改元 | |||
天保 1年 | 1830 | 家斉 | |
天保 2年 | 1831 | ||
天保 3年 | 1832 | 5月、鼠小僧 捕縛される。 為永春水 人情本「春色梅児誉美」刊。 | |
天保 4年 | 1833 | 天保の飢饉。全国的に打ち壊し、一揆が発生。歌川広重「東海道53次」刊行始める | |
天保 5年 | 1834 | ||
天保 6年 | 1835 | 9月、天保通宝鋳造。 老中水野忠邦 貨幣改鋳に着手 | |
天保 7年 | 1836 | 米価高騰。全国的に飢饉。東北で餓死者多数出る。 | |
天保 8年 | 1837 | 家慶 | 2月、大阪町奉行与力大塩平八郎の乱。 9月、家斉隠居。家慶将軍職に就く。 |
天保 9年 | 1838 | 大和の農婦「中山みき」天理教を唱える。 | |
天保10年 | 1839 | 5月、目付鳥居忠耀 渡辺崋山、高野長英を捕縛(蛮社の獄) 12月、水野忠邦 老中首座になる。 | |
天保11年 | 1840 | 3月、遠山景光町奉行に就く。 | |
天保12年 | 1841 | 5月、大老井伊直亮解任。水野忠邦による天保の改革始まる。目付鳥居忠耀 町奉行に転任。 | |
天保13年 | 1842 | 浅草猿若町へ歌舞伎三座を移転。 | |
天保14年 | 1843 | 閏9月、水野忠邦失脚し阿部正弘が老中首座になる。 |
天保15年(1844)12月2日、弘化元年に改元 | |||
弘化 1年 | 1844 | 家慶 | 6月、水野忠邦 再び老中首座となる。 3月、フランス船が琉球に来航、通商を求める。9月、オランダ使節が国王の開国勧告書を提出。 |
弘化 2年 | 1845 | 2月、水野忠邦老中職罷免される。阿部正弘が再び老中首座に就く。6月オランダに開国拒否を通告。5月、イギリス船長崎入港。7月、幕府 海防掛新設。 | |
弘化 3年 | 1846 | 外国船の来航頻繁となる。2月、西洋兵学者・江川英竜 幕府に海防意見書提出。5月、アメリカ捕鯨船 エトロフ島に漂着。5月、フランス東印度司令官琉球に来航 通商を要請。閏5月、アメリカ東印度司令官 浦賀入港 通商を要請。デンマーク船 浦賀入港 通商を要請。 | |
弘化 4年 | 1847 | 2月、彦根・川越藩に相模、会津・忍藩に房総の沿岸防護下命。 |
弘化5年(1848)2月28日、嘉永元年に改元 | |||
嘉永 1年 | 1848 | 家慶 | 1月、水戸藩の「大日本史」紀伝完成。3~4月、外国船 対馬、五島、越後、松前、津軽沿岸に相次いで出没。 |
嘉永 2年 | 1849 | 閏4月、イギリス測量船 江戸湾を測量。7月、幕府は松前・福江藩に築城して沿岸防備を命じる。9月、幕府 鉄砲稽古を指示。10月、諸大名の屋敷での調練を指示。12月、諸大名に沿岸警備を指示。 | |
嘉永 3年 | 1850 | 2月、江戸で大火 神社寺院170余、大名屋敷36 旗本屋敷250余焼失。10月、佐賀藩 反射炉築造。高野長英江戸で捕縛、自殺する。12月、国定忠治 磔の刑。 | |
嘉永 4年 | 1851 | 1月、アメリカ船 土佐の漁民中浜万次郎を琉球に護送。8月、薩摩藩 精錬所設置。 | |
嘉永 5年 | 1852 | 1月、イギリス船 琉球来航。5月、江戸城西の丸焼失。江戸大森に砲台築城。 | |
嘉永 6年 | 1853 | 家定 | 2月、江戸・東海道大地震 小田原被害甚大。6月、浦賀沖にペリー黒船来航。11月、幕府は会津、川越、忍、彦根藩の沿岸警備を解き、彦根藩に羽田・大森の、熊本、長州、岡山、鳥取、柳川5藩に相武・房総の防備を命じる。 |
嘉永7年(1854)11月27日、安政元年に改元 | |||
安政 1年 | 1854 | 家定 | 3月、アメリカ 8月、イギリス 12月、ロシアと和親条約締結。下田、函館、長崎開港。 |
安政 2年 | 1855 | 10月、安政の大地震。倒壊家屋約2万戸。死者約1万人。5月、幕命により松前藩は北蝦夷地(カラフト)のロシア陣営を焼討。10月、幕府 蝦夷地開拓のための庶民移住を奨励。12月、オランダと和親条約締結。 | |
安政 3年 | 1856 | 2月、洋書所を蕃書調所に改名。4月、スクーナー型帆船建造。御家人に武技調練、旗本らに洋式銃調練。8月、東海、東山道暴風雨被害甚大 江戸で死者10万人とも。オランダ 幕府に蒸気船献上。12月、ロシア人蝦夷地で石炭採掘。 | |
安政 4年 | 1857 | 5月、駿河大地震 興津宿に津波。奥羽地方で寒波、降雪。6月、ロシア人蝦夷名寄に上陸。10月、アメリカ総領事ハリス 将軍に謁見。 | |
安政 5年 | 1858 | 家茂 | 5月、長崎でコレラ発生。7月、幕府 外国奉行を新設。イギリス 幕府に蒸気船献上。6月、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約締結。9月、尊王攘夷派弾圧の安政の大獄始まる。8月から江戸を含む全国でコレラが流行する。江戸で死者4万人以上。 |
安政 6年 | 1859 | 5月、横浜、長崎、函館開港。9月、蝦夷地を会津、仙台、秋田、庄内、盛岡、弘前藩に分与して開拓および警備をさせる。 |
安政7年(1860)3月18日、万延元年に改元 | |||
万延 1年 | 1860 | 家茂 | 1月、黙阿弥「三人吉三廓初買」市村座で初演。3月、桜田門外の変・水戸浪士、井伊大老を殺害。4月、横浜で外国人を主な対象とした遊郭「岩亀楼」など開業。6月、ポルトガルと修好通商条約締結。この年全国的に凶作、コレラ・麻疹流行する。 |
万延2年(1861)2月19日、文久元年に改元 | |||
文久 1年 | 1861 | 家茂 | 4月、ロシア軍艦 対馬で掠奪暴行し土地租借を要求。 5月、水戸藩浪士 イギリス公使館襲撃。長崎でイギリス人ハンカード欧字新聞を初めて発刊。7月、品川御殿山に外国公使館建設。12月、和宮御輿入れ。 |
文久 2年 | 1862 | 1月、水戸藩士ら老中首座安藤信正を傷害。江戸で火事多発(放火か)4月、京都で新撰組 寺田屋騒動。旗本、御家人、藩士らを銃隊調練場で訓練。 5月、組番衆、与力、同心に西洋大小砲の野外訓練。8月、薩摩藩士 横浜生麦でイギリス人殺傷。9月、幕府 最初の留学生がオランダへ出発。12月、長州藩士ら御殿山のイギリス公館焼討。ヘボン 横浜に日曜学校開設。 | |
文久 3年 | 1863 | 2月、イギリス 生麦事件などの賠償要求。交渉難航。3月、将軍家茂入洛し参内。4月、幕府 諸大名にイギリスとの開戦準備を通告。5月、幕府 各国に三港閉鎖と外国人退去を通告。幕府イギリスに賠償金を(薩摩藩が)支払うことを約す。長州藩 アメリカ商船、オランダ軍艦を砲撃。幕府 イギリス、フランスの守備兵の横浜駐屯を許可。6月、アメリカ、フランス軍艦 下関を砲撃。将軍家茂海路で江戸にもどる。7月、薩摩藩は生麦事件の賠償金をイギリスに支払うことを拒否。イギリス艦隊は鹿児島を砲撃。8月、天誅組大和で挙兵。11月、薩摩藩 イギリスに賠償金10万ドル支払う。大阪大火で一万五千戸焼失。江戸城本丸、二の丸で火災。 |
文久4年(1864)2月20日、元治元年に改元 | |||
元治 1年 | 1864 | 家茂 | 1月、将軍家茂海路で大阪から京へ。3月、一橋家徳川慶喜禁裏総督となる。水戸藩士らの天狗党 筑波山で挙兵。4月、京都見廻組 新設。イギリス兵1500人横浜上陸。6月、池田屋騒動・新撰組が尊王攘夷派を襲撃。安中藩士新島襄 脱藩してアメリカ留学。薩摩藩 アメリカ・イギリスに留学生16人送る。7月、京都蛤御門の変・長州兵敗走。京都大火。8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国艦隊 下関砲撃。後に講和成立。幕府 長州藩討伐の動員令出す。11月、長州藩 保守派が急進派を抑えて降伏。幕府 横須賀造船所設置。12月、長州高杉晋作 下関で挙兵。 |
元治2年(1865)4月7日、慶応元年に改元 | |||
慶応 1年 | 1865 | 家茂 | 1月、長州高杉晋作 下関から山口へ 3月、幕府 下関事件の賠償金300万ドルの支払い約定→明治7年に支払い完了。薩摩藩 イギリス留学生19名派遣(五代友厚ら同行)。4月、幕府 諸大名に長州征伐動員令出す。5月、将軍家茂 長州征伐のため江戸出発。7月、幕府のロシア留学生ら函館出発。9月、横浜製鉄所、横須賀造船所起工。 |
慶応 2年 | 1866 | 慶喜 | 米価高騰 各地で打ち壊し多発。1月、長州藩と薩摩藩 薩長同盟。6月、幕府 長州藩攻撃開始。8月、将軍家茂 大阪城で病死。将軍の喪により休戦の勅命。10月、幕府 ロシアに使節派遣。11月、幕府 フランスへ使節派遣。12月、慶喜 将軍職に就く。孝明天皇崩御。幕府 6月にベルギー、7月にイタリア、12月にスイスと修好通商条約締結。 |
慶応 3年 | 1867 | 1月、天皇喪により長州討伐軍解散。2月、幕府使節団ペテルスプルグで樺太を日本とロシアの両居とする仮規約調印。4月、幕府 外国総奉行設置。10月、薩摩・長州藩に討幕の密勅下る。将軍慶喜 大政奉還を奏請。11月、坂元竜馬・中岡慎太郎ら京都見廻組によって暗殺される。12月、王政復古令 |
慶応4年(1868)9月8日、明治元年に改元 | |||
明治 1年 | 1868 | ||
明治 2年 | 1869 |
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