浮世絵 名所絵(街道絵) 
 
    

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浮世絵東海道五十三次48 坂下(さかした・さかのした)

土山  ←2里18丁 坂下  1里24丁

東海道分間之図  編:遠近道印 絵:菱川師宣 出版年:元禄3年(1690)

坂下宿
 坂下宿は坂の下宿とも表記されるが、ここでは坂下宿とします。広重の保永堂版東海道五十三次・坂下宿の図には名勝・筆捨山(ふですてやま)が描かれている。筆捨山はもともとは岩根山と言われていたが、室町時代の絵師・狩野元信(1476~1559)がこの山を描こうとしたが、その壮大さに圧倒され(天候により刻々と景色が変わるためとも)描くことを断念して筆を捨てたことから筆捨山と言われるようになったと伝えられる。東海道を往来する旅人は関宿から坂下宿へ向かう途中の沓掛の立場の茶屋から筆捨山の景観を眺めていた。
 坂下宿は東海道難所の一つ鈴鹿峠の東麓(伊勢国側)に立地。慶長6年(1601)に宿場の指定を受けたが、慶安3年(1650)に鈴鹿川の氾濫による洪水で宿場が壊滅的被害を受ける。このため東へ10丁(約1km)ほど移動して再建。天保14年(1843)の記録では本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠屋は48軒あった。本陣は大竹屋、松屋、梅屋、脇本陣は小竹屋で東海道名所図会には「この宿の本陣の家広くして世に名高し」として坂下宿の挿絵に「大竹・小竹とて大きなる旅舎あり。これを俗に本陣・脇本陣などという」と記載されている。鈴鹿越を控えて、この宿場で宿泊する参勤交代の大名や旅人は多く賑っていたようだ。
 坂下宿を出て鈴鹿峠に。ここには立烏帽子(鈴鹿御前)・坂上田村麻呂の伝説に因んだ鈴鹿神社(片山神社、鈴鹿権現、鈴鹿明神)の社がある。旅の安全を祈願する神社として多くの旅人が参拝した。
 

東海道五十三次之内 坂下・筆捨嶺
絵:歌川広重  出版年:天保4年(1833)~ 版本:保永堂 

北斎東海道・坂下  
絵:画狂人北斎(葛飾北斎)  出版年:享和年間(1801~1803) 

駅路の鈴(東海道五十三次)・坂下 
絵:北斎  出版年: 

道中画譜・坂下   
絵:前北斎為一(葛飾北斎)  出版年:天保1年(1830) 版元:東壁堂 

東海道五十三次・坂下 
絵:歌川広重  出版年:天保13年(1841) 版元:鶴屋喜右衛門

五十三駅景色入美人画・坂下 
絵:歌川国貞  出版年:天保年間 

東海道五十三対・坂下 
絵:歌川広重  出版年:天保年間 

東海道風景図会・坂下   
絵:歌川広重  出版年:嘉永4年(1851) 版元:錦昇堂 

 役者見立東海道五十三次駅・坂下  五十路の駅・坂下
  絵:三代豊国 出版年:嘉永5年(1852)   絵:三代歌川豊国 出版年:嘉永5年(1852) 

双筆五十三次・坂下 
絵:三代歌川豊国 歌川広重  出版年:安政1年(1854)

五十三次図会・坂下 
絵:歌川広重  出版年:嘉永年間(1848~1854)

五十三次名所図会・坂下 
絵:歌川広重  出版年:安政2年(1855)

 東海道名所風景 坂下  末広五十三次 坂下
絵:芳虎 出版年:文久3年(1863)  絵:二代広重 出版年:慶応1年(1865) 

 東海道名所図会 筆捨山
出版年:寛政9年(1797) 

 東海道名所図会 坂下宿
出版年:寛政9年(1797) 

 伊勢参宮名所図会 坂下宿
出版年:寛政9年(1797) 

 東海道名所図会 鈴鹿社
出版年:寛政9年(1797) 

 伊勢参宮名所図会 鈴鹿権現社
出版年:寛政9年(1797) 

 東海道五十三駅之図・坂下 鈴鹿権現社
絵:長谷川雪旦 文政年間(1818~1829) 

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