宮宿
古来より熱田神宮の門前町として発展してきた町。東海道宮宿を描いた浮世絵の多くに熱田神宮の鳥居が描かれている。
慶長6年(1601)の伝馬制度の制定により宿場町に指定されて以降、桑名宿への七里の渡し場としてさらに賑いを増す。また、佐屋路、美濃路の分岐点でもあり旅人の往来は激しかった。天保14年(1843)の記録では本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋248軒あり、旅籠屋の数では圧倒的に東海道一の規模を誇る宿場だった。
宮宿から桑名宿へは海路7里の船の旅。但し桑名までの七里は満潮時の距離で干潮時は沖を通るため10里になった。また天候によって海が荒れれば欠航になる事もある。なにより渡海は危険が伴う上に長時間(約4時間)の乗船が必要であった。このため七里の渡しより費用はかさむが陸路で6里と川船3里の合計9里の距離の佐屋路※を利用する旅人も多かったようだ。道中膝栗毛の弥次さんは長時間の乗船で小便が我慢できないことを心配して佐屋路を利用しようとするが、宿の主人から「竹筒」を用意すると言われて船で行くことに。もっともこの「竹筒」が騒動のもとになる。桑名までの船賃は45文。(※佐屋路は陸路で岩塚宿、万場宿、神守宿を経て佐屋宿へ。佐屋宿から木曽川水系の佐屋川岸の佐屋湊から川船で桑名宿に至る路)
弘化2年(1845)に江戸から東海道を経由(途中に久能山、秋葉山、鳳来寺山を見学)して伊勢参りをする旅人は海路が嫌で佐屋路を通った訳ではなく、甚目寺、津島神社参拝の為に七里の渡しを利用しなかったのだが、この旅人の足跡を辿ってみる。旅人は池鯉鮒宿で宿泊した翌日に宿を発って鳴海宿でうどん(32文)を食べ、わらじを18文で買う。宮宿では44文を支払い昼食を取った後、七里の渡しを利用せずに名古屋城下へ向う。城下で休息して32文を払ってうどんを食べ、ちり紙を22文で買う。甚目寺観音を参拝して甚目寺の門前町で宿泊。宿代は164文だった。この日に使った金銭は312文。翌日は甚目寺を出立して津島牛頭天王(津島神社)を参拝。賽銭30文、甘酒6文、昼旅籠代(昼食代を含むか?)100文支払っている。津島から佐屋に出て佐屋川にある佐屋湊から桑名まで川船に乗る。船賃55文、3里の距離、所要時間は約1時間程度と推測。船賃のほかに船人酒代(船頭への心づけか?)32文、船中菓子12文使っている。桑名で下船してから、名物の焼き蛤に8文、茶おけめしに40文支払い。富田宿で宿泊する。宿代148文。この日に使った金銭は431文。金銭価値が現代と比較していかほどか判断できないので貧乏旅行か豪華旅行か分からないが、この旅人の健脚ぶりは驚くばかりだ。
宮宿の名物はうなぎの蒲焼。東海道は海沿いを通ることからうなぎの蒲焼を名物とする宿場は多い。道中膝栗毛の弥次さん喜多さんが七里の渡しの船に乗り込み渡船場を出ると”あきなひ舟 いくそうとなく漕ぎちがいて「酒のませんかいな。めいぶつのかばやきのやきたて、だんごよいかな。ならづけでめしくはっせんかいな」”と声がかかる。これらはみんな江戸時代に宮宿の名物だったのだろうか。その他に喜多八が宮宿の宿に着くなり「はらがへった」と言うと、弥次郎「うどんでもくってきや。ここのめいぶつだ」と言う。名古屋名物のうどんと言えば「きしめん」だが、名古屋きしめんのルーツはいろいろ説があるようだ。 |