島田宿
東海道最大の難所とされる大井川は駿河国と遠江国の境を流れる川。大井川は架橋されておらず渡船による川越もできない。通行は全て川越人足による徒歩渡り。島田宿には駿河側の渡り口があり、対岸の金谷宿は遠江側の渡り口がある。
元禄9年(1696)に川越の管理・統制のために島田宿と金谷宿に川庄屋が任命され、川庄屋およびその配下の役人が詰める「川会所」が設けらた。旅人はここで「川越札」を購入して、それを川越人足に渡して川越した。川会所では川越人足350人を常備していた。川越賃料は公定であったが水量によって変動した。また川越の方法は①川越人足の肩にまたがって渡る肩車と②蓮台に乗って渡る二通りで、②の蓮台はその種類によって大名や高位の武士や公家が使用する上等、一般武士が使用する中等、一般町民が使用する下等に別れていた。
弘化2年(1845)に東海道を経由して伊勢参りの旅人は「大井川・川渡し」156文と「川越酒代」24文を支払ったと備忘録に記録している。この金額が公定賃料かどうかは分からないが、「川越酒代」は人足へのチップと思われる。
膝栗毛の弥次さん喜多さんは川越人足から二人で800文でどうだと誘われる。二人はべらぼうに高いと言ってこれを断り、川会所で武士に成りすまして川越札を安く購入しようとしたが、武士でないことを見破られ逃げ帰る。結局、川越人足と相対で賃料を決めて二人乗り蓮台で渡る。その賃料はいくらなのか記載がないので分からない。
大井川は渡るのも難儀だが、それ以上に大水で川止め(川渡禁止)になるのが辛い。弥次さん喜多さんの場合は大井川の川止めが開けた直後であったので、先を急ぐ旅人で「往来の貴賤すき間もなく、此川のさきを争ひ・・・」の混乱状態であった。これをチャンスと川越人足がひと儲けを企てたのだろう。
川止めは年間に10回程度はあった。川止めは一日で終わることは少なく最長28日間川止めになった記録もあるようだ。
松尾芭蕉は元禄7年(1694)の旅行で大井川の川止めに遭い三日ほど島田宿に留まることになった。「さみだれの そら吹きおとせ 大井川」の句を残している。芭蕉も苛立っていたようだ。
大井川の川止めで旅人は苦労するが、宿場の旅籠屋は、近辺の宿場も含めて大いに潤っていた。天保14年(1843)の記録では島田宿に本陣3軒、脇本陣はなく旅籠屋は48軒あった。川止めが続くと旅籠は満員となり寺院や商家、農家にも宿泊した。また島田宿だけでは賄いきれず、府中、江尻までも旅人で溢れることもあったようだ。 |