浮世絵 街道絵(浮世絵東海道五十三次) 
 
    

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浮世絵東海道五十三次19 府中(ふちゅう)

鞠子  ←1里18丁 府中  2里29丁→ 江尻

東海道分間之図  編:遠近道印 絵:菱川師宣 出版年:元禄3年(1690)

府中宿
 府中(駿府)は駿河国の国府があった所。室町時代から戦国時代にかけては今川氏が本拠とし、今川氏滅亡後の天正13年(1585)には徳川家康が城を築いて本拠とする。天正18年(1590)家康は関東移封により江戸を本拠とするが、慶長12年(1607)家康は秀忠に将軍職を譲って大御所として駿府城に移る。元和2年(1616)に家康は駿府城で没する。以後、駿府城は徳川頼宣、次いで徳川忠長が城主となるが、寛永9年(1632)以降は幕府の番城として城代が置かれた。府中(駿府)は家康の所縁の地として江戸時代を通じて城下町として繁栄する。
 府中宿は城下町のなかの宿場で、天保14年(1843)の記録では本陣が2軒、脇本陣が2軒、旅籠屋は43軒であった。
 道中膝栗毛の弥次さん喜多さんは三島で胡麻の蠅に路銀を盗まれが、何とか府中までたどり着いた。ここで弥次さんは知人に路銀を工面をしてもらい、この先の旅が続けられるようになる。都合よく知人がいたのは物語だからだが、膝栗毛の作者・十返舎一九、本名重田貞一(しげたさだかつ)幼名・市九は明和2年(1765)府中の町奉行所同心の子として生まれている。路銀を工面したのは一九本人に間違いない。
 お金を手にした弥次さん喜多さんは何の反省もなく勇んで二丁町(安部川遊廓の隠語)へ馬に乗って出掛ける。この様子は広重の五十三次図会にも描かれている。
 府中宿から西に向かうのには安部川を渡る必要がある。ここには橋も架かっておらず渡船もない。徒歩渡りとなる。弘化2年(1845)の伊勢参りの旅人は名物の安部川餅を食べ、人足の肩に乗って安部川を渡る。旅人の備忘録には安部川餅5文、安部川渡し45文と記入されている。弥次さん喜多さんも人足の肩車で安部川を渡るが、水かさが増しているとして64文請求される。
 

東海道五十三次之内 府中・安部川 
絵:歌川広重  出版年:天保4年(1833)~ 版本:保永堂 

北斎東海道・府中  
絵:画狂人北斎(葛飾北斎)  出版年:享和年間(1801~1803) 

駅路の鈴(東海道五十三次)・府中 
絵:北斎  出版年: 

道中画譜・府中  道中画譜・江尻 
絵:前北斎為一(葛飾北斎)  出版年:天保1年(1830) 版元:東壁堂 

東海道五十三次・府中 
絵:歌川広重  出版年:天保13年(1841) 

五十三駅景色入美人画・府中 
絵:歌川国貞  出版年:天保年間 版元:佐野屋喜兵衛

東海道五十三対・府中 
絵:歌川広重  出版年:天保年間 

東海道風景図会・府中   
絵:歌川広重  出版年:嘉永4年(1851) 版元:錦昇堂 

 役者見立東海道五十三次駅・府中  五十路の駅・府中
  絵:三代豊国 出版年:嘉永5年(1852)   絵:三代歌川豊国 出版年:嘉永5年(1852) 

双筆五十三次・府中 
絵:三代歌川豊国 歌川広重  出版年:安政1年(1854)

五十三次図会・府中 
絵:歌川広重  出版年:嘉永年間(1848~1854)

五十三次名所図会・府中 
絵:歌川広重  出版年:安政2年(1855)

 東海道名所風景 府中  末広五十三次 府中
絵:芳虎 出版年:文久3年(1863)  絵:国輝 出版年:慶応1年81865) 

 東海道名所絵図 安部川
出版年:寛政9年(1797) 

 東海道五十三駅之図・品川
絵:長谷川雪旦 文政年間(1818~1829) 

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