曲亭馬琴は明和4年(1767)千石取りの旗本・松平鍋五郎の用人滝沢運兵衛の子として生まれる。滝沢家の祖先は最上義光の家臣であったという。9歳の時に父親が亡くなり、10歳の時に家督を継ぎ、主君の孫に小姓として仕えるが、癇癪持ちの孫との生活に耐え切れず14歳の時に松平家を出て、先に他家に養子に出ていた長兄の家の居候となる。元服して左七郎興邦と名乗り、長兄と共に俳諧を学び、天明7年(1787)21歳のときには俳文集を編集するまでになった。しかし武家奉公は尊大な性格であった為か、一所に定まらず渡り奉公で転々としていたようだ。
寛政2年(1790)24歳の時に山東京伝に弟子入りを願い出たが断られる。ただし出入りは許されて、寛政3年(1791)に”京伝門人大栄山人”の名前で黄表紙を出している。 因みに、この年京伝は執筆した洒落本が風俗を乱すとして手鎖50日の刑に処せられている。また馬琴はこの年の秋の洪水で深川にあった家を失い京伝の食客となり、京伝の執筆の手助けをすることになる。生活安定のためが最大の目的で、寛政5年(1793)に履物屋を営む伊勢屋の未亡人の婿となるが、商売には身を入れず文筆業に打ちこむ。ペンネームの曲亭馬琴は”くるわでまこと”をもじったもので、廓でまじめに遊んで女に尽す野暮な男といった意味だとされるが、本人は中国の古典から取った名前だと主張していたという。なお、現在は滝沢馬琴と本名を付けて呼ばれることがあるが、刊行された本に滝沢と記したものは見当たらない。
文化4年(1807)に初編を出版した「椿説弓張月」によって、いわゆる読本作家として名声を築き、文化11年(1814)からはライフワークにもなった「南総里見八犬伝」を刊行する。天保4年(1833)に右眼に異常が起こり、天保10年(1839)には両眼とも失明する。自らの執筆が不可能となったので、早世した子供の宗伯(医師)の妻・お路に口述して創作活動を続けた。天保12年(1841)に八犬伝の執筆が完了し、なおも「傾城水滸伝」などの執筆を続けるが、この完成をみないまま嘉永元年(1848)に没する。享年82歳。
馬琴は自身が江戸の戯作者と同列に扱われることを嫌ったという。「洒落本」を誨淫導欲(かいいんどうよく)の書と決めつけ、「滑稽本」を”浮世物真似めきたるゑせ物語”と軽蔑していた。勧善懲罰、儒教的精神に凝り固まっていた人物のようだ。 |