三国志は後漢末期の混乱期に魏、蜀、呉の三国が覇権を争い、魏より権力の禅譲を受けた西晋による三国統一までの約100年間について書かれたた歴史書。西晋による中国統一後の西暦280年以降に蜀出身の西晋の史官”陳寿”によって書かれたとされる。陳寿によって書かれた三国志は紀伝体(本紀、列伝などの項目から構成される)の歴史書で「魏国志」「蜀国志」「呉国志」からなる全65巻で構成されている。ただし本紀は魏国志のみに記載があり、蜀、呉国志には列伝(重要人物の伝記)しか記載されていない。陳寿の三国志は歴史書としては高い評価を受けているが、記述が簡潔すぎることから後世に様々な逸話が挿入され、物語としての三国志が語られるようになる。明の時代の14世紀後半には「三国志演義」と呼称される大河歴史小説が成立したという。
三国志の日本への伝来は天平時代にはすでにあったようで、小説としての三国志演義も徳川家康の蔵書にあり、また林羅山は慶長9年(1604)に「通俗演義三国志」を読み終えたという。三国志は小説として読まれたばかりでなく、”兵法書”としても読まれていたようだ。元禄2年(1689)〜元禄5年(1692)に三国志演義の日本語版「通俗三国志」が刊行され、天保7年(1836)〜天保12年(1841)には「絵本通俗三国志」が刊行されている。これは北斎の弟子葛飾戴斗が挿絵を描いている。
このサイトに掲載した「三國志画伝」は「通俗三国志」をベースにしたものと思われ、作者は重田貞一(戯作者十返舎一九の本名)で本の記名は重田貞一と十返舎一九の名前が併用されている。絵は歌川国安が描いている(四編下帙後編の最終ページには歌川国直画と記されている)。出版されたのは文政13年(=天保元年1830)から天保6年(1835)。初編から始まり10編まで刊行された。ただし掲載本は10編の上編が欠落している。出版は仙鶴堂、甘泉堂、栄久堂の3者が分担して共同で行ったものと思われます。
十返舎一九は天保2年(1831)年に他界し、歌川国安もまた天保3年(1832)に他界している。両名とも故人となった以降も出版が続けられたのは、それまでに書き溜めた原稿があったためと推測されるが、ひょっとして他人が代筆したのかもしれない。
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