十返舎一九(じっぺんしゃいっく)は明和2年(1765)駿河府中(現在の静岡市)で町奉行所の同心の子として生まれる。本名は重田貞一(しげたさだかつ)。幼名は市九。 江戸に出て大名家に奉公したが暫くして浪人。大阪に赴き、天明3年(1783)駿河町奉行より大坂町奉行に転身した小田切土佐守に仕えたとされる。一九は大坂で7年余を過ごしたとされるが、武家奉公は短期間であったようだ。浪人して義太夫語りの家に居候して浄瑠璃作者となる。この頃は近松与七と名乗る。またこの時期に”香道”を学んだことが、後のペンネームとなる「十返舎」の謂れとなる。10度焚いても香を失わないという名香「黄熱香(十返しの香ともいう)」から名付けたという。一九は幼名の市九から。(当初は”十遍舎”または”十偏舎”と称した)
大阪在住時代に材木商(えびすや)の入り婿となるが、”不埒をして”離縁。大阪を離れざるを得なくなる。本人は「入り婿した相手の娘が50歳なので逃げ出した」と自身が刊行した草紙に書いているがこれは言い訳だろう。大坂から江戸に戻り、寛政6年(1794)に蔦屋重三郎の食客になる。本問屋の下働きをしながら浮世絵を学び、寛政7年(1795)に挿絵も自らが描いた黄表紙「心学時計草」を出版する。一九は大坂でも絵を学んでおり、このころは江戸風の浮世絵を試みているが自ら”狂画”と称する耳鳥斎(大阪の浮世絵師で個性的な鳥羽絵を描くことで評判の絵師)の画風の影響が残る。
寛政8年(1796)に長谷川町の後家の家に入り婿となるが、享和元年(1801)頃には吉原に深入りして放蕩を尽くし”不埒”のために離縁される。これをきっかけに南房総、箱根へ旅行(逃避行?)したことがその後の一九の戯作者としての転機となる。享和2年(1802)に「浮世道中(東海道中)膝栗毛」が出版されたが、これが予想外の好評を得る。一九は日本で最初に文筆のみで生活できた作家といわれるのはこの成功によるところが大きい。もっとも文筆のみで生活できたとはいえ、一九は年に50冊を超える草紙を作り、自ら挿絵や版下を描くことも多いといった努力があってのことでもある。文化7年(1810)に眼を患い、文政5年(1822)頃には中風に悩まされる生活となり、この頃の作品は名前を貸しただけといったものもみられる。晩年は恵まれた経済状態ではなかったようだ。
天保2年(1831)没する。享年67歳。辞世の句「此の世をば どりやお暇と線香の 煙と共に はい(灰)左様なら」 |