江戸時代、悪所・傾城と呼ばれながらも一時も絶えることなく存続した地域がある。現在なら存在することにどんな言い訳も通用しないが、江戸幕府は必要悪を認めて公認の色街が生まれた。それが吉原遊郭。
江戸は家康の開府以来急膨張をつづけて成長した町。その町を形成するために多くの人足が集まり、町の形が整え始めると地方の大名の江戸勤番の武士の数も膨れあがる。その生活を支える商人、その奉公人も集まってくる。急成長する都市の人口構成の特徴として、一般的な家族構成の移住でなく、単身の男の比重が非常に高くなる。自然と彼らの性的欲求を身過ぎの術とすべく女性も流れてくる。江戸の各所に女郎屋ができ、岡場所とよばれる私娼の集まる場所も現れる。
元和3年(1617)幕府は日本橋葺屋町に隣接する葦(よし)の生える湿地の二町四方(約218m四方)を埋め立て、ここに江戸の町の各所に点在していた女郎屋、岡場所の娼婦を集める。吉原は「葦の生い茂る原」から名付けられたとされる。
江戸の町の更なる膨張により、過密化が進み大名屋敷などが吉原遊郭に隣接して建てられるようなる。幕府は吉原遊郭を町の外部に移転する計画を進めていた折、明暦3年(1657)に江戸の町の大半が焼失した明暦の大火が起き、これを機に吉原遊郭を浅草寺裏の浅草田圃に移転させる。辺鄙な場所に移動することになった新吉原は、周囲を幅5間の堀で囲まれた東西180間、南北135間、約3万坪弱の敷地で、面積ではこれまでの5割ほど広くなった。
吉原遊郭は外部から遮断された小さな世界ではあったが、その風俗や男と女の関係などが浮世絵や黄表紙、洒落本・読本などの絵草紙、また芝居などの題材となり、粋や美意識を伴なった独特の吉原風俗・文化を作り上げていった。 |