浮世絵 源氏物語 
 
    

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寛文版源氏物語01 桐壺(きりつぼ)
 物語 全54帖  絵師: 作者:紫式部   出版:寛文年間(1661~1672) 版元: 

01桐壺 源氏誕生から12歳まで。

 いときなき 初もとゆひに 長き世を ちぎる心は 結びこめつや

 どの帝(みかど)の時代であったか、身分はそれほど高くはないが、帝の寵愛を一身に受けた更衣(こうい=女御に次ぐ夫人))がいた。これといった後ろ盾はなく、他の女御(にょうご=皇后に次ぐ夫人)や更衣から嫉妬されて悪戯を受けるが、やがて皇子(若宮・光源氏)を産む。
 帝には有力者で右大臣家出身の女御が生んだ皇位継承を約束された第一の皇子(兄宮)がいたが若宮は兄宮と比べようもなく美しい姿であった。
 更衣の御局(みつぼね=部屋)は桐壺(帝の居場所から最も遠い部屋。庭に桐が植えられていた)で、帝は他の女御・更衣の部屋を素通りして頻繁に桐壺へ通う。また桐壺の更衣が御前に参上する際には多くの女御・更衣の部屋の前を通らざるを得ない。これがたび重なるにつれて更衣に対する他の女御・更衣の嫉妬や悪戯はエスカレートする。帝は途方にくれる桐壺の更衣の様子を不憫に思い、清涼殿の隣の後涼殿の部屋を元から住んでいた更衣を他に移して、そのあとを桐壺の更衣が御前に参上する際の上局(うえつぼね)として下される。移された更衣の恨みは一層募ることに。
 若宮(光源氏)の三歳の袴着の儀は帝の意向で第一の皇子の時と比べても劣らない規模で盛大に行われた。このことは世間から批判も受けたが、若宮の秀でた資質を認めて理解する人もいた。しかしその年の夏、桐壺の更衣は周囲の迫害にたえきれず、病弱の身であったこともありこの世を去る。また若宮(光源氏)が6歳の時に祖母が他界し、若宮は帝以外に頼るものはいない境遇となる。
 若宮(光源氏)は7歳で読書(ふみ)始めを行い、学問にも音楽にも優れた才能を見せた。当時来朝していた高麗人(こまうど)は若宮を見て「帝王となるべき相はあるが、帝王になってはならない。また人臣でで終わる人ではない」と予言する。帝は政争の種になる事を恐れて若宮を臣下に下し、源氏の姓を賜る。
 源氏12歳の元服の折、加冠役であった左大臣は娘(葵の上)を添臥(そいぶし)として差し出す。しかし源氏は年長である葵の上に馴染めず、帝が新たに迎えた女御の藤壺の宮(先帝の第四皇女)を慕う。藤壺は亡き母・桐壺更衣に生き写しであった。
 桐壺更衣の里邸は宣旨によって素晴らしく改造され(後に二条院と呼ばれる)、源氏はこの様なところで思う人(藤壺のような人)と暮らしてみたいものだと思いに耽る。
「光る君」という名は高麗人が褒めて付けたものだと言い伝えられている。
  

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

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