恋川春町は延享1年(1744)に紀伊藩の家老・安藤帯刀に仕えていた桑島九蔵勝義の二男として生まれる。宝暦13年(1762)のとき父の兄である駿河小島藩松平家に仕えていた倉橋忠蔵勝政の養子となり、翌年より出仕し明和8年(1771)には刀番として10両2人扶持の禄を得た。しかしそれ以前の暮らしは貧しく、浮世絵を学び絵師によって収入を得ようとしたものと思われる。恋川春町の名は駿河小島藩の屋敷が小石川春日町にあったこと、浮世絵師勝川春章に私淑していたことから「川」と「春」の2字を借用したとされる。
その後、留守居添役、側用人、年寄役などを歴任、藩政の中枢を担うまで出世する。そのため執筆や作画活動はしばしば中断するが生涯で黄表紙の作は30部を越え、他に洒落本を手掛け、酒上不埒(さけのうえのふらち)の名前で狂歌を詠むなど天明期における文人武士グループの主要メンバーであった。戯作者でもあり絵師でもあり多彩な才能の持ち主であり、特に親友である朋誠堂喜三二の戯作に挿絵を多く描いている。
安政4年(1775)に出版した「金々先生栄華夢」は”恋川春町、一流の画を書き出して、、これより当世にうつる。青本、草双紙は大人の見るものと極まる”と式亭三馬が評したとされるほどの評判を得、それまで絵草紙一般を青本、黒本と称していたが、これと区別するために黄表紙と呼ばれるようになる。
天明7年(1787)には120石に加増される。しかし時代は田沼意次が失脚し、松平定信が老中となっていわゆる寛政の改革が始まる。寛政元年(1789)に刊行された「鸚鵡返文武二道(おうむかえしぶんぶにどう)」が定信の文武奨励策を批判するものとされてこの年に幕府の呼び出しを受ける。 春町は病気と称して呼び出しに応じず隠居してその年の7月7日に死去する。享年45歳。自害との説もある。 |