浮世絵 歌川派の浮世絵師 2 
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 歌川派の浮世絵師 2
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 歌川国丸 

 歌川国丸(うたがわくにまる)は寛政5年(1783)川越で生まれたとされるが、出生地については確証がない。初代豊国の門人で、国貞を別格として国直、国安とともに豊国門人三羽烏と称された。役者絵、美人画などの錦絵も描いているが主な活躍の舞台は絵草紙(合巻ものなど)の挿絵であったようだ。文政12年(1829)37歳の若さで亡くなる。 

 歌川国直 

 歌川国直(うたがわくになお)は寛政5年(1793)に信濃国で生まれたとされるが異説もある。姓は吉川で名は鯛蔵といった。江戸に出て初代豊国の門人となる。文化9年((1812)に式亭三馬作の合巻本「昔話丹前風呂」の挿絵を描いたのがデビュー作と推定される。国直の主な活躍場所は合巻本や読本の挿絵であったようで、三馬をはじめ十返舎一九や為永春水の作品の挿絵を多く描いている。
 初代豊国の門人の中では国貞を別格として「国安」「国丸」ともに豊国門人三羽烏と称されてもいた。また豊国の門人で弟弟子になる「国芳」の面倒をよく見ていたという。一説によれば国芳は豊国の門人ではなく、国直の門人であったという説もある。寛永7年(1854)に亡くなる。62歳または60歳で生涯を終える。 

 歌川国安 

 歌川国安は安政6年(1794)に生まれたとされるが出自等は分かっていない。初代豊国の門人であるが、文化5年(1808)国安が14歳ころに描いた役者絵に「豊国門人国安」の落款があることから、その時までには入門していたことになる。また当初は師匠のもとに寄宿していたとされるので生家に事情があってのことかもしれない。また一時的に”故あって”画名を「西川安信」に改名したこともあったが、その理由もよくわからない。画名変更は短期間で、すぐに元の国安に戻ったようだ。
 天保3年(1832)39歳の若さで病死する。病名は”瘡毒(梅毒)"であったという。

 歌川国満 

 生年、没年共に分かっていない。通称を熊蔵と言った。豊国の門人で、絵草紙の挿絵を多く描いた。一翁斎と号し、国満を「国光」とも記した。

 歌川豊重 

 歌川豊重(うたがわとよしげ)は享和2年(1802)に生まれ天保6年(1835)に34歳で亡くなったとされるが異説もある。初代の歌川豊国の門人で、当初は国重(くにしげ)と名乗ったが、のちに豊重を名乗る。初代豊国の養子となって、文政8年(1825)豊国の死去によって2代目豊国を襲名する。豊重が豊国の養子になった経緯や豊国を襲名した経緯については江戸時代から様々な伝承がある。 現在では国重と豊重は同一人物であるとする説が定着しているが、以前には別人説が主流であった時期もある。天保6年(1835)に2代豊国が死去し(死んだのではなく豊国の号を返上して浮世絵師を引退したとの説もある)、弘化元年(1844)に国貞が”国貞改め2代豊国”と署名し豊国を襲名したのは一門の中で豊重(2代豊国)を認めず無視する空気があったものと思われる。

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