浮世絵 人情本 
   
 
    

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人情本

 洒落本の内容に人情的要素が加わることによって感傷的で哀れな姿を描いて読者の涙を誘うといった戯作(泣き本と呼ばれた)が現れる。また文化年代(1804~1817)になって伝奇的・浪漫的な「読本(よみほん)」も全盛を迎えようとしていた。そのなかで泣き本と読本の両者を合わせた低い知識階層の読者、特に婦女子を対象とした世話物で柔らかい内容の戯作が生まれてくる。
 文政2年(1819)に二代目南杣笑楚満人(なんせんしょうそまひと)を名乗った後の為永春水(ためながしゅんすい)は処女作である「明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)」を出版する。明烏後正夢は新内の名曲「明烏」の後日譚という趣向で、洒落本、滑稽本が会話を中心とした文章構成であるのに対して背景描写や物語の展開を記した文章と会話との均整がとれた近代小説に近いものであった。
 天保3年(1832)に楚満人から為永春水に改名して出版した「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」は大好評を得て、人情本の地位が世間に認められ春水自ら人情本の元祖を名乗る。
 人情本は天保年間に全盛期を迎えたが、天保の改革により人情本は淫らなものとして取り締まりを受け、天保13年(1842)に春水は手鎖50日の刑を受ける。このことにより強度の神経症に陥った春水は翌年の天保14年に亡くなる。人情本は松亭金水などの戯作者によって幕末まで引き継がれるが、明治期になって他の戯作と同様衰退して消滅する。
 人情本は江戸時代の儒教思想の知識人から「婦女子の喜びをもてあそぶ人情本は男女淫奔猥褻(いんぽんわいせつ)の本である」と罵られていたが、明治期になり坪内逍遙は春水の人情本を賞賛し、滑稽本を含め社会・風俗の写実的描写が近代文学の礎となったと評価される。

 菊廼井草紙
 絵:溪斎英泉
 作:為永春水 
 出版年:文政7年(1824)  版元:中村屋幸蔵
 人情本 12巻 

 春色梅児誉美
 絵:柳川重信
 作:為永春水
 出版年:天保3年(1832)  版元:
 人情本 12巻

 春色籬之梅
 絵:歌川国直
 作:為永春水
 
 出版年:天保9年(1838)  版元:
 人情本 15巻
 

 玉都羽喜
 絵:
 作:為永春水
 
 出版年:天保年間(1830~1844)  
 版元:大嶋屋伝右衛門
 人情本 12巻 

 以登家奈幾
 絵:2代目歌川国貞
 作:為永春水 
 出版年:天保11年(1840)  版元:菊屋幸三郎
 人情本 12巻 

     

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