為永春水は天保3年(1832)から天保4年(1833)にかけて出版した「春色梅児誉美(春色梅暦)」によって人情本の作者として復活し、且つその第一人者としての評価を得る。その後に春色梅児誉美の続編を次々と出版し一連のシリーズは20編60冊にもなった。さらに梅児誉美の姉妹編ともいえる「春告鳥」を天保7年(1836)に出版。この頃の春水は作者として最も油がのりきった時期と評価されている。残念ながら春告鳥は国会図書館のデジタル化資料にはありませんので本サイトには掲載していません。
掲載した「春色籬の梅(しゅんしょくまがきのうめ)」は春告鳥(5編15冊)の続編とし書かれたもの。天保9年(1838)から天保11年(1840)にかけて出版された。春告鳥は梅児誉美と同様に幾組もの恋愛ストーリーを並行的に描いており、最終決着を続編である籬の梅に持ち越している。
因みに春告鳥は口絵を色刷りしたために発禁処分(この頃は色刷り本が禁止されていた)となり、その為に6編以降(春告鳥は5編まで)を「籬の梅」に改題して出版したと、人情本を猥褻な書物であるとしてその作者を忌み嫌う曲亭馬琴が批判的に書き残している。春色籬の梅の口絵も墨の濃淡ではない絵具が使われていると思われるが、これも同様に処分を受けたかどうか不明。しかしながらこれらの事例は春水が天保12年(1841)に手鎖50日の刑罰を受ける原因の一つとなったことは想像できる。
挿絵は豊国の門人である歌川国直が描いている。生年は寛政5年(1793)、信濃国の生れ。文化年間(1804〜1818)から天保年間(1830〜1844)にかけて活躍し、主に読本などの挿絵を描く。嘉永7年(1854)に没する。 |