為永春水(ためながしゅんすい)は寛政2年(1790)に生まれたとされるが、その出自は全く不明。生年も天保14年(1843)に54歳で没したとされるので、そこから逆算したに過ぎない。後年自ら語ったことによると本名は鷦鷯(ささき)貞高。通称を長次郎といった。文化年間に戯作者振鷺亭について戯作を学び、ついで式亭三馬の門に遊んで”三鷺”と名乗ったという。文化11年(1814)に書肆(しょし)青林堂を開業し(越前屋長次郎と名乗る)、文政元年(1818)に29歳で二代目楚満人を名乗る頃まではその経歴はほとんど分っていない。二代目楚満人の名で合巻を出版している。
春水の処女作とされるのは文政2年(1819)自ら経営する青林堂から出版した人情本「明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)」。これは新内の名曲”明烏”の後日譚という趣向で、これが好評を得て戯作者として認められることになる。またこの作品は後にいわゆる人情本の最初の作品とされる。もっともこの「明烏後正夢」は狂言作者松島半二の稿本を元に滝亭鯉丈(実兄?)と合作した作品であったという。
書肆青林堂を経営する春水はこの種の稿本を手にする機会が多く、この後も合作者を使って数多くの人情本を自らの名で出版し、文政期人情本の第一人者の地位を築く。しかし文政期の末ごろまでにそれまで春水に協力した有力な合作者が去り、しかも文政11年(1828)の大火で書肆青林堂が類焼し、書肆を廃業せざるを得なくなる。
苦境に陥った春水であるが、却ってこのことが作家としての春水に幸運をもたらす。天保3年(1832)独力で人情本「春色梅児誉美(しゅんしょくうめこよみ)を執筆し出版。これが大ベストセラーとなった。つづいて続編「春色辰巳園(たつみのその)」を出版し、その後も姉妹編や類似本を次々と出版し、江戸人情本の祖であると自ら名乗るようになる。しかし独力で「春色梅児誉美」を執筆した春水であるが名声が高まるにつれて春水の周りには多くの合作者・助力者が集まるようになる。次第に合作本が多くなってゆく。
春水の切り開いた人情本は、それまでの洒落本・滑稽本が通人意識や笑をもっぱらとする戯作であったのに対して、人間の素朴な人情を感覚的・情緒的に表現したものといえる。近代の文学に通じるものがあるが、当時としては対象とする読者は比較的知識や教養の低い層であったとされる。もともと春水の狙いは浮世絵に描かれた美人画を視覚でとらえた文学であったような気がする。多くの合作者・助力者に囲まれていたのも、今風にいえば文学作品を執筆するのでなく視覚で楽しむ映画を製作するような感覚であったのではないか。文学者というより、企画者・映画監督のような立場であることを自ら認めていたのではないか。他人の作品を継ぎ接ぎしたり、ベストセラーを目論んだ安易な商業主義の本造りとだと、後世から批判されてはいるが、むしろそのことが春水が狙っていたことのような気がする。
天保13年(1842)天保の改革の取締により、春水の人情本は淫らであり風紀を乱すものとして手鎖50日の刑を受ける。このことで強度の神経症に陥り、天保14年(1843)54歳で没する。 |