高輪は江戸の玄関口。宝永7年(1710)高輪には東海道の左右に石垣を築いた「大木戸」が設けられた。検問所の役割のようだが関所のように常時通行手形を改めるような施設ではなく高札場があっただけのようだ。甲州街道(甲州道中)の江戸の玄関口である四ツ谷にも大木戸は設けられていた。大木戸の周辺には茶屋や屋台が並び旅人の休息場所として、また上方へ上る旅人の見送り、江戸に向かう旅人のお迎え場所として賑っていた。また高輪の海岸は月見の景勝地として有名で、特に7月26日の「二十六夜待(にじゅうろくやまち)」の日は月待ちの大勢の見物客で混雑した。ここから東海道を品川に向う道は海岸に沿った景勝地。高輪から品川まで茶屋や屋台が途切れることなく続いていたようだ。
品川は東海道の最初(最後)の宿場。中世以来港町として栄えていた品川湊に隣接している。江戸日本橋からは2里(約7.9km)の距離。短い距離なので行きも帰りも品川を宿にする旅人は多くはなかったと思われるが「品川三宿」といわれるように徒行新宿(かちしんじゅく)、北品川宿、南品川宿に分かれ、現在の京急本線北品川駅から青物横丁駅あたりまで広い範囲に分布して旅籠や茶屋が150軒以上あった。徒行新宿は高輪と北品川宿の間にあった茶屋町が享保7年(1722)に宿場として認められ、宿場町が負担する伝馬と徒行人足のうちに徒行人足のみの負担であったので徒行新宿と呼ばれた。
品川宿は東海道を行き交う旅人だけでなく、周辺の観光地や江之島、大山を訪ねる観光客の通過点でもあった。また品川宿は風光明媚な海辺にあり深川と並ぶ岡場所、花街として栄え、その勢いは吉原遊郭を凌ぐほどであったようだ。 |