江戸名所図会は神田雉子町の名主であった斎藤家が長秋(幸雄)、莞斎(幸孝)、月岑(幸成)の三代に亘って完成させた7巻20冊に及ぶ労作。寛政期(1789〜1800)に長秋が編纂を開始し、月岑の代になって天保5年(1834)に1〜3巻(10冊)、天保7年(1836)に4〜7巻(10冊)を刊行。
斎藤家は家康の江戸入府以前からの名主(草創名主)の家柄であったという。長秋は安永9年(1780)に京都の書林から出版された都名所図会に触発されて、これに勝る江戸の地理誌をまとめることを思いついたとされる。寛政10年(1798)にはおおよその形式がまとまり、”東都名所図会”というタイトルで版元を須原屋、挿絵は北尾重政に依頼する手はずであったとされるが、長秋は寛政11年(1799)10月に63歳で亡くなる。この為に出版作業は一時中断となる。その遺志を婿養子の莞斎が引き継ぎ、資料の増補訂正に尽力したが、莞斎は文化元年(1804)に47歳で急死。その子の月岑は15歳で斎藤家を継ぐ。月岑も先代からの遺志を継ぎ、先代からの友人などにも支えられて出版事業を成就させる。
挿絵は長谷川雪旦(および子の雪堤も一部を描いたとされる)が描く。安永7年(1778)江戸で生まれ、天保14年(1843)に亡くなる。雪旦は雪舟の流派から絵を学んだとされるが、特定の流派に属さず、他派の画風を積極的に学び独自の画風を確立していた。
江戸名所図会の7巻にはそれぞれ北斗七星の漢字名のサブタイトルがつけられている。巻之一「天枢」、巻之二「天○=王へんに施」、巻之三「天○=王へんに幾」、巻之四「天権」、巻之五「玉衝」、巻之六「開陽」、巻の七「揺光」。 |