享保20年(1735)江戸で生まれる。旗本佐藤三四郎に仕える西村平六久義の三男。14歳の時、父の姪が嫁いだ秋田藩士平沢常房の養子となり平沢常富を名乗る。天明元年の時に120石取りとなり、藩の留守居役として敏腕をふるう傍ら”手柄岡持(てがらおかもち)”の名前で狂歌を詠み、また”朋誠堂喜三二”として黄表紙も手掛ける。黄表紙は30部を超え、そのいくつかに恋川春町が挿絵を描いている。
天明8年(1788)に執筆した「文武二道万石通」が松平定信の寛政の改革を風刺しているとして、藩主佐竹義和より叱責を受け、この書を最後に黄表紙から身を引いた。平沢常富(朋誠堂喜三二)はこの後も藩の重要な地位にあり、文化10年(1813)に77歳で没する。喜三二と友人であった春町は喜三二の”文武二道万石通”に唱和するように(おうむ返しするように)”鸚鵡返文武二道”を出版したが、こちらの方は寛政元年(1789)に幕府の呼び出しを受けることになり、その年の7月春町は死去。 友人同士であったが対照的な最期を遂げている。 |