浮世絵 歌川派の浮世絵師 3 
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 歌川派の浮世絵師 3
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 歌川国芳 

 歌川国芳(うたがわ くによし)は寛政9年(1798)江戸日本橋の染物屋を家業とする家に生まれる。幼少のころから絵筆を執り、文化8年(1811)に15歳で豊国の門人となる。文化11年(1814)に初作となる合巻「御無事忠臣蔵」の挿絵を描いている。文政10年(1827)に刊行した「水滸伝」シリーズが好評で、武者絵の国芳と評されるようになる。
 天保年間(1830〜1843)になると水野忠邦による「天保の改革」が浮世絵、錦絵界にも及び、作画活動が厳しく制限されるようになる。国芳はこれに逆らうように風刺風の浮世絵を発表し、世間からは好評を受けるが、度々奉行所の呼び出しを受けている。幕末になり中風を患い、文久元年(1861)に65歳で死去する。

 歌川広重 

 歌川広重(うたがわひろしげ)は寛政9年(1797)江戸定火消同心安藤源右衛門の長男として八代洲河岸の定火消屋敷で生まれる。幼名を徳太郎といった。国芳とは同年である。
 広重は文化6年(1809)に母を亡くし、父の隠居に伴い火消同心職を継ぐがその年に父も亡くなる。小禄の身であり絵で家計を助ける目的で文化8年(1811)に歌川豊広の門に入る。習作期の浮世絵師の常として役者絵のほか美人画や武者絵、その他に狂歌本や合巻の挿絵などを描いている。文政11年(1828)師の豊広が亡くなり、以降広重は風景画を中心とした作画に専念する。天保4年(1833)に保永堂から刊行された東海道五十三次は大ヒットとなり、名所絵(風景画)浮世絵師としての地位を不動のものにする。安政5年(1858)コレラが原因で52歳の生涯を終える。


 

 

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