明暦3年(1657)江戸市中の大半が焼失した明暦の大火の後、大目付北条氏長は幕府から江戸市中の実測図の作成を命じられる。北条氏長は洋式測量術を用いて正確な測量に基づいた地図を作製する。当時としては画期的な地図であった。
この地図の作成に参加していた遠近道印(おちこちどういん)は幕府の特別な許可を得て「新版江戸大絵図」を寛文10年(1670)に、「新版江戸外絵図」4図を寛文12年(1672)から翌年にかけて経師屋加兵衛から出版する。これ以降、江戸の地図は本図が規範となり民間に正確な地図が普及するきっかけとなったとされる。
因みに、幕府の命を受けて地図作成を指揮した大目付北条氏長は秀吉の小田原攻めで滅びた北条氏の一族の子。氏長は慶長19年(1614)に家康、元和2年(1616)に秀忠に謁見している。甲州流軍法を取り入れた北条流兵法を興し、大砲射撃の際の正確な着弾点を把握するために洋式測量術を習得したとされる。これが地図作成に役立った。 遠近道印はその素性について諸々の説があるが、医師で富山藩に仕官する藤井半知とする説が有力のようだ。元禄3年(1690)には菱川師宣が絵を描いた「東海道分間之図」を出版している。これも当時としては正確に距離、方角が描かれている。なお東海道分間之図はこのサイトの「日本の城ある記・街道絵図」に掲載しています。 |