式亭三馬は安政5年(1776)浅草田原町の家主で版木師・菊池茂兵衛の長男として生まれる。本名は菊池泰輔。天明4年(1784)8歳の時から寛政4年(1792)16歳の時まで本石町の地本問屋に住み込みで働き、寛政6年(1794)18歳の時に黄表紙「天道浮世出星操」を出版する。寛政9年(1797)に本屋の婿養子となり本屋と執筆活動を兼ね、その間に黄表紙を出版するもヒット作はなかった。寛政11年(1799)に出版した「侠太平記向鉢巻」で火消人足の闘争を題材したことで、火消”よ組”の反感を買い、三馬と版元(西宮新六)の居宅が破壊されて裁判沙汰になり三馬は手鎖50日の処分を受ける。ただし、これが却って三馬の名を世間に知らしめたことにもなった。文化3年(1806)に妻の死亡により婿入り先を去り、古本屋を自ら開いて執筆活動に力を入れる。
文化6年(1809)、それまで敵討ちものが主流であった出版界にまったく新しい着想で出した「浮世風呂」が大評判となる。浮世風呂は結局4編まで続き、更に姉妹編ともいえる「浮世床」を執筆する。また文化7年(1810)に古本屋をやめて”仙方延壽丹”の売薬の店を本町に出店する。売薬は自らの著作でも宣伝し、相乗効果もあって経済的には結構裕福であったようだ。しかし大酒飲みでかつ病弱であったことから文政5年(1822)に46歳で亡くなった。
式亭三馬は”眼光鋭く、一癖ありそうな苦味走った面構え”と当時から評されていたように友人の数もそれほど多くはなかったようだ。自ら開催した書画会には山東兄弟の他は門弟が集まった程度であったという。特に曲亭馬琴とは犬猿の仲であったようだ。また挿絵の遅延で豊国と喧嘩となった話もある。執筆活動は日頃は怠けているが、書き始めれば非常に早く、三日三晩で5,6巻を書きあげたという。もっとも、他人の作を参考にしたり模倣したた著作もかなりあったらしい。 |