寛延2年(1749)に江戸で生まれる。本名は楠彦太郎。生家は医者、板木師、鞘師などと諸説あり分っていない。別号に杣(そま)人、曾満人などがあると言われているので楚満人=杣人で、先祖は木材の伐採に関係していたかもしれない。天明3年(1783)に黄表紙作者として登場。寛政7年(1795)に発表した”敵討義女英(かたきうちぎじょのはなぶさ)”は松平定信の寛政の改革による風俗取締、出版統制、文武の奨励などの政策に沿い、田沼意次時代終焉の時流にも乗って好評を得る。以後この種の黄表紙本を多発する。年10タイトル以上の敵討ち作品を発表し、生涯で300タイトル以上を残したとされ、その分、作風は類型的で戯作者としての評価は低いようだ。しかし出版された草紙の多さから、その時代に大衆に受け入れられていたことは事実であり、草紙に描かれた残酷とも感じられる殺害場面の描写もまたその時代を写しているものと思う。文化4年(1807)に没する。 |