市場通笑は元文2年(1737)江戸日本橋・通油町の表具屋に生まれる。本名は寧一。通称を小倉屋小平次といった。家業の表具師を継ぐが、安永8年(1779)に黄表紙の処女作となる虚言弥二郎傾城誠(うそつきやじろう けいせいのまこと)を発表。以後100タイトルを超える黄表紙を出版する。作風は滑稽さの中に教訓話を織り込んだ、当時の最も標準的な戯作手法を用いている。黄表紙作家として当時人気の恋川春町や朋誠堂喜三二は武士出身のいわゆる文人作家であり作品の舞台も武士が中心であるが、町人である通笑の作品には町人の登場が多い。挿絵を見ているだけでも当時の江戸町人の生活様式を覗うことができる。一生独身で妹夫婦と住み、その子供を寵愛していたせいで子供向けの作品や子供が登場する作品も多い。何れも教訓的なものが主体で「教訓の通笑」といわれていたようだ。文化9年(1812)に没する。 |