浮世絵 仮名・浮世草子の作者
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仮名・浮世草子の作者


 浅井了意

 浅井了意(あさいりょうい)は慶長17年(1612)生れとされるが異説もある。寛永年間に「可笑記評判」、慶安・承応年間に「かつらぎ物語」を著し、万治2年(1659)に著した「堪忍記」は好評を得た。万治年間(1658〜1661)に出版された「東海道名所記」は道中記の草分け的存在とされ、寛文元年(1661)に出版された「浮世物語」は浮世坊が諸国を漫遊する物語で仮名草子から浮世草子へ移り変わりする作品と評されている。また、寛文6年(1666)に出版した「御伽婢子(おとぎぼうこ)」は怪奇物語の祖とされる。仏教説話集的な著書も多く、多彩な才能を持ち、多種多様な著書を著した。
 晩年、延宝年間(1673〜1881)に京都二条の正願寺の住職となり、自らは”本性寺昭儀坊”と名乗ったという。元禄4年(1691)に亡くなったとされるが確証はない。 

 井原西鶴 

 井原西鶴(いはらさいかく)。寛永19年(1642)に大阪の裕福な商人の家に生まれたとされるが、確証はない。本名は平山藤五とされるが、母方(?)の井原氏を名乗る(実家の家督相続を放棄したためという)。15歳の頃より俳諧を学び始め、21歳の時には俳諧の点者となる。最初は鶴永と号したが、延宝元年(1673)に師匠の西山宗因の一字をもらい西鶴と号した。西鶴の詠む俳句は当時としては革新的、前衛的なもので「阿蘭陀(おらんだ)西鶴」「バサラ西鶴」などとと揶揄されてもいた。
 元和2年(1682)に刊行した「好色一代男」が好評で、これ以後俳諧の世界から遠ざかり、浮世草子の作者の道を歩む。「好色5人女」「日本永代蔵」「世間胸算用」などを執筆するが、元禄3年頃より体調がすぐれず、病気がちで元禄6年(1693)に没する。52歳であったという。

 石川流宣

 石川流宣(いしかわとものぶ)は浮世絵師、絵草紙の作者のほか地図の作者として江戸時代初期に活躍した。通称を石川伊左衛門、名を俊之といった。流宣を”流舟”と記してともに”りゅうせん”とも呼ばれた。生年および没年は分かっていない。
 浮世草子作者としては貞享3年(1686)に出した「好色江戸紫」が代表作とされるが、残念ながら国立国会図書館のデジタル化資料にはなく掲載していない。浮世絵師としては好色本の挿絵を多く描き、その作風は菱川師宣風であるため師宣の弟子ともいわれるがその確証はない。

 西沢一風

 西沢一風(にしざわ いっぷう)は寛文5年(1665)に大阪の書肆・正本屋太兵衛の子として生まれる。元禄11年(1698)ごろに家業を継ぎ、同時に自身の処女作となる「新色五巻書」を刊行するが、評判はいま一つのようだった。元禄13年(1700)に刊行した「御前義経記」は義経記の当世化(やつし)を目論み、当時流行の芸能事を加えて人気を得る。この作の成功により西鶴没後の浮世草子作者の第一人者としての評判を得た。宝永年間(1704〜1710)になり一風と同じく浮世草子作者の第一人者として評価されていた江島其磧と張り合う形で一風は精力的に戯作活動を行ったが、浮世草子出版の主導権は其磧を抱える書肆・八文字屋の勝利となる。これ以後一風は浮世草子作者としての第一線から離れ、この後は豊竹座の浄瑠璃作者として活躍する。享保16年(1731)に没する。 

 月尋堂

 月尋堂(げつじんどう)は元禄年間(1688〜1703)から正徳年間(1711〜1715)にかけて浮世草子の作者として数点の作品を残しているが、その生没年、出自など分かっていない。別号に定延、北京散人などがあり、もともとは俳諧師と思われ、同時代の俳人・藤岡月尋(万治1年・1658〜正徳5年・1715)と同一人物であろうと推測されているが確証はない。
 作品は西鶴の模倣の域を出ないが品位を保った文章で、この時代の浮世草子作者として一定の評価を得ている。

 江島其磧

 永井堂亀友

 永井堂亀友(ながいどうきゆう)は浮世草子時代の末期に、主として気質物を中心とした作品を刊行。生年没年、出自については確定した資料はない。京都で生まれた人というのが定説のようだが、大坂町奉行所の与力で狂歌師、俳人として活躍した一寿亭亀友(八田亀友)と同一人物との説もある。14部ほどの浮世草子を出版している。

 

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