歌川豊広は安永3年(1774)江戸で生まれるが生い立ちなどはよくわかっていない。歌川派の始祖豊春の門人で、初代豊国とは同時期の同門。一柳斎と号して天明8年(1788)頃から活躍を始める。豊春の門人の中で豊広は豊国に次いで技量が秀でていたとされるが、華やかな美人画や役者絵を多く描いた豊国と比べ豊広の美人画は面長で少々陰のある寂しげな印象を与える。その所為か豊広は役者絵や美人画はあまり描かなかった。一枚物の浮世絵版画の少なさが知名度の低さに繋がっているようだ。主として黄表紙などの版本の挿絵が活躍の中心であり、特に当時流行した南仙笑楚満人の仇討ち物の挿絵を多く描いている。また曲亭馬琴の作品の挿絵も多い。
浮世絵師として活躍する傍ら、余暇として義太夫節浄瑠璃、三味線、寄席噺など自身が演じて親しんでいたという。人生を十分に堪能していた趣味人であったようだ。また、豊広の弟子に名所画、風景画で大成し東海道五十三次のヒット作品を生んだ広重がいる。
文政12年(1830)56歳で亡くなる。 |