江戸後期から幕末にかけて浮世絵界を席巻した歌川派の祖は歌川豊春。豊国はその門弟だが、豊春は残された作品が少ないこともあり、豊国に比べれば少々影が薄い。また豊国は多くの門弟を抱え、かつその門弟らが大いに活躍した。歌川一門が浮世絵界に確固たる地位を築いたのは豊国によるものと言っていいのではないか。
豊国は明和6年(1769)木彫りの人形師、倉橋五郎兵衛の子として生まれる。五郎兵衛は2代目市川團十郎の木彫肖像を造って名声を得たという。豊国は幼少のころから絵を描くことが好きで、父の仕事の関係で知り合いであった歌川豊春の門に入って浮世絵を学ぶ。天明6年(1786)18歳の時に黄表紙の挿絵を描いて浮世絵界にデビュー。以後寛永期にかけて主に挿絵画家として力量を発揮し評価を得る。またこの間の寛政2、3年(1790〜91)ごろには美人画を出版して評判を得ている。
豊国の画風は当初は豊春の模倣であったが、次第に鳥居清長や喜多川歌麿などの画風を取り入れ、それを自己流にこなして常に時代に合った流行浮世絵師として存在感を発揮する。しかし時々のこうした画風の変遷は後世の美術評論家からはあまりいい評価を得られていないようだ。歌麿や写楽のような独創性がなく、また次第に様式化していった作風に芸術的な価値を認められていないようだ。豊国が最も技量を発揮して作画を続けたのは寛政期だという。文化文政に至っては作画の力は衰え、晩年には豊国の作品は弟子の代筆であるとも言われた。その真偽は私にはわからないが、豊国が文政8年(1825)に亡くなると二代目豊国を実力ではナンバーワンの国貞ではなく養子の豊重が継いだのも、その辺りの事情があったのかもしれない。 なお、国貞は二代目が浮世絵界を退いたのち三代目豊国(本人は二代目豊国と称した)を名乗っている。 |