北尾美丸は寛政5年(1793)頃に江戸で出生したとされるが確証はない。また没年についても分かっていない。
最初に北尾政美に学び、同時に喜多川月麿にも学んだとされる。さらに歌川豊国にも学んだとされるが正式な門人であったかどうかよく分からない。複数の師匠を同時に持つことが可能であったとも思えない。名前の”美丸(美麿と称したこともある)”は変わらないが、姓は何度も変更している。始めは「北川」姓を名乗り、ついで月麿の本名である「小川」姓も名乗る。やがて「歌川」姓に変更し、更に「北尾」姓を名乗る。普通、姓名を変更するときは師匠が変わったことによるものと思われるが、美丸の場合はその都度どこかの流派に属していたわけではないように思う。当時の浮世絵師の慣習としてこうしたことが許されたのかどうかよくわからないが、作画活動が途切れることなく続いていたことから推測すれば、どんな姓を名乗ろうが結構自由な雰囲気にあったのかもしれない。文政10年(1827)以降に2代目”北尾重政”を名乗っているが、これもどんな経緯によるものなのかよくわからない。画風は北尾重政風ではなく、むしろ豊国風でもある。そうであっても多くの合巻物の挿絵を描いており、それなりの評価を得ていたようで、版元にしてみれば実力さえあれば(使い勝手が良ければ)姓名など細かなことはどうでもよかったのかもしれない。
掲載した作品は概ね「北川美丸」→「小川美丸」→「歌川美丸」→「北尾美丸」→「北尾重政」の順に名前が記載されていますが、このほかに「喜多川」姓で出版されたものもあるようです。また錦絵も残しているようですがこのサイトには掲載する資料がありません。天保9年(1838)以降の作品が国会図書館の資料では見当たらないようだが、果たしてその年の前後に亡くなったのだろうか。 |