北尾政美(きたお まさよし)は明和1年(1764)江戸の畳職人の子として生まれる。13歳ころに北尾重政に入門。安永7年(1778)15歳ころに咄本「小鍋立」の挿絵を描いたのが初筆とされる。本格的な作画活動は安永9年(1780)からでこの年に何冊かの黄表紙の挿絵を描いている。この時は”北尾門人三二郎(または三治郎)”と記しているが、翌年の天明1年(1781)からは北尾政美で出版している。以降、黄表紙などの挿絵をもっぱら描き、生涯で160部以上の黄表紙の挿絵を描き、その他に咄本などを含めればゆうに200部を超える挿絵を描いている。
寛政6年(1794)、31歳の時に津山藩の御用絵師に任用され、藩命により幕府奥絵師の狩野惟信に師事する。画名も鍬形寫ヨ紹真(くわがたけいさいつぐざね)と称した。寛政6年(または寛政7年)に絵手本の先駆けともなる「書式画譜」を刊行し、寛政7年(1795)には略画式を刊行。これが評判を得て「鳥獣略画式」「人物略画式」「山水略画式」「魚貝略画式」「草花略画式」を次々に刊行する。絵手本としては葛飾北斎の「北斎漫画」が有名だが、北斎漫画の初編が刊行されたのは文化11年(1814)であり、北尾政美(寫ヨ)はそれより20年も前に絵手本を出版している。
寛政8年(1796)以降は黄表紙の挿絵を描くのを止め、肉筆画を中心とした作画に移る。津山藩の御用絵師に任用された以降も江戸で暮らしたが、文化7年(1810)に1年ほど津山で過ごしている。文政7年(1824)享年61歳で生涯を終える。
北尾政美が北尾重政の門人となった同時期に北尾政演(山東京伝)も門人であった。政演、政美共に浮世絵師として師匠の跡を継ぐ実力を備えていたが、両名とも二代目重政を名乗らず、しかも最終的には浮世絵師としての活動を止めている。浮世絵師として十分に生活の糧を得ることができ、評価も得られたと思われるが、浮世絵版画を描くことに魅力を感じていなっかったのだろうか。それとも別な思いから浮世絵版画から遠ざかったのか。二代目重政は「美丸」が継いだが、美丸の画風は北尾風ではなく、歌川豊国に近いものであった。以後北尾派は衰退する。 |