浮世絵 北尾派の浮世絵師 
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 北尾派の浮世絵師


 北尾重政 

 北尾重政は元文4年(1739)江戸小伝馬町の書肆、須原屋三郎兵衛の長男として生まれる。父の三郎兵衛は大阪の版元、須原屋茂兵衛の雇用人であったがのれん分けで独立したという。重政は幼いころから本に囲まれて育った影響もあって10歳のころには当時流行した紅摺絵の絵暦の版下を描くようになった。特定の師匠について絵を学んだ経歴はないが、始めは狩野派風の絵を学び、西川祐信や鳥居清満の画風を取り入れ、鈴木春信や勝川春章の影響も受けたようだ。安永5年(1776)に勝川春章との共筆で出版された「青楼美人合姿鏡」は評判を得て、この頃には重政の画風も確立される。
 重政は北尾政演(山東京伝)や北尾政美(後に狩野派の絵師に転じて鍬形寫ヨと名乗る)らの弟子を育て浮世絵界で北尾派の一派を成す。文政3年(1820)82歳で没する。

 北尾政美 

 北尾政美(きたお まさよし)は明和1年(1764)江戸の畳職人の子として生まれる。13歳ころに北尾重政に入門。安永7年(1778)15歳ころに咄本「小鍋立」の挿絵を描いたのが初筆とされる。以降、黄表紙などの挿絵をもっぱら描き、生涯で160部以上の黄表紙の挿絵を描き、その他に咄本などを含めればゆうに200部を超える挿絵を描いている。
 寛政6年(1794)、31歳の時に津山藩の御用絵師に任用され、画名も鍬形寫ヨ紹真(くわがたけいさいつぐざね)と称した。絵手本の先駆けともなる「書式画譜」を刊行し、これが評判を得て「鳥獣略画式」「人物略画式」「山水略画式」「魚貝略画式」「草花略画式」を次々に刊行する。絵手本としては葛飾北斎の「北斎漫画」が有名だが、北斎漫画の初編が刊行されたのは文化11年(1814)であり、北尾政美(寫ヨ)はそれより20年も前に絵手本を出版している。

 北尾政演 

 北尾美丸 

 北尾美丸(きたおよしまる)は寛政5年(1793)頃に江戸で出生したとされるが確証はない。また没年についても分かっていない。
 最初に北尾政美に学び、同時に喜多川月麿にも学んだとされる。さらに歌川豊国にも学んだとされるが正式な門人であったかどうか分からない。名前の”美丸”は変わらないが、姓は何度も変更している。始めは「北川」姓を名乗り、ついで「小川」姓も名乗る。やがて「歌川」姓に変更し、更に「北尾」姓を名乗る。当時の浮世絵師の慣習としてこうしたことが許されたのかどうかわからないが、作画活動が途切れることなく続いていたことから推測すれば、結構自由な雰囲気にあったのかもしれない。文政10年(1827)以降に2代目”北尾重政”を名乗っているが、これもどんな経緯によるものなのかよくわからない。画風は北尾重政風ではなくむしろ豊国風でもある。


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