鳥居清長は宝暦2年(1752)に江戸木材木町(現在の日本橋)で生まれた。鳥居家の血筋でなく、先祖は相州浦賀の出身で江戸に出て家主となり、また書肆を経営し白子屋市兵衛と名乗っていた。
清長は鳥居家三代目の鳥居清満の門に入り、明和4年(1767)に細版紅摺絵を発表したのがデビュー作とされる。このときは長兵衛と名乗ったが、19歳の時から清長と号した。当初は鳥居家伝統の役者絵を主に描いていたが次第に鳥居派風から離れて美人画をもっぱら描くようになる。清長の描く美人画は、最初の頃は鈴木春信、北尾重政、礒田湖龍斎、一筆斎文調などの影響を受けて八頭身で華奢な姿であったが、次第にどっしりとした健康的な体つきの美人画像を作り上げていった。また美人画の背景に写実的、現実的な江戸の風景を描き、背景と人物が快く調和した作品であることで高く評価された。背景を写実的なものとすることで二枚続き三枚続きなど複雑な構図を上手くこなし、以後の揃物浮世絵版画の興隆に多大な影響を与えた。
天明5年(1785)に師である鳥居清満が亡くなり、四代目鳥居家の襲名を懇願されるが清長は血筋でないことでこれを固辞。鳥居家の専門であった芝居看板絵は鳥居家ではない当時流行の浮世絵師歌川豊春が描くことになる。しかし豊春は看板絵に不慣れであったため名代役者一人を書き漏らし、これが騒動となって再び清長に看板絵の制作が要請される。この頃に師の清満の女婿の家に男子が誕生したこともあり、その子が成人するまでの間という条件で天明7年(1787)清長は四代目鳥居家を相続する。鳥居家当主であった時代は美人画から遠ざかりもっぱら看板絵の制作に尽力する。文化12年(1815)64歳で没する。清長が没した後、清満の孫(清長の門人となり、清長が手塩にかけて絵師として育てた)が二世清満を名乗り五代目の鳥居家当主となる。 |