浮世絵 鳥居派の浮世絵師
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 鳥居派の浮世絵師


 鳥居清信

 寛文4年(1664)に鳥居庄七(清元)の次男として大阪で生まれる。幼少期に京都で浮世絵師として菱川師宣に匹敵する存在であった吉田半兵衛に浮世絵を学ぶ。父清元は大坂道頓堀で芝居の看板書きとして評価を得ていたが、貞享4年(1687)に江戸に下る。清信はこれに同行。父清元が元禄3年(1690)に初めて市村座の看板を描き、清信もまた父を引き継ぎ各座の看板を描く。清信の絵は荒事と呼ばれる歌舞伎の演技様式の表現に巧みで、芝居看板といえば鳥居派の絵師が独占的に描くようになった基礎を作った。浮世絵美人画は菱川師宣の影響を受け、且つ狩野派、土佐派の技法も学び独自の画風を確立したとされる。  

 鳥居清倍 

 初代鳥居清倍(とりい きよます)は鳥居清信の長男とも弟ともいわれるが確認する資料がない。生年は元禄4年(1691)、没年は正徳6年(1716)とされるがこれも異論がある。いずれにせよ25歳前後で若死にしたことは間違いないようだ。鳥居派を代表する絵師で「ひょうたん足みみず描き」の画法を完成した絵師とされる。2代目は享保9年(1724)に清信の女婿となった清信の弟子(半三郎)が名乗る。ただしこれにも異論があり、清倍の子、あるいは清信の子との説もある。2代目の生年は宝暦3年(1706)、没年は宝暦13年(1763)とされる。

 鳥居清満 

 鳥居清満(とりいきよみつ)。生年享保20年(1735)、没天明5年(1785)。2代目清倍(清信の娘婿)の次男で鳥居派の三代目当主となる。父のあとを継ぎ家業の芝居の看板絵の筆をとり、鳥居派の伝統的な画風を継承しつつも新たな工夫も加えて喝采を得ることもあった。看板絵以外にも黒本、黄表紙などの挿絵を数多く描き、役者絵、美人画など様々なジャンルの絵を描く。清満の活躍した時代は丹絵から紅絵へと移行し、さらに多色刷りの浮世絵版画へと進化する時期であり、浮世絵版画が発展してゆく熱気のある時代であった。既に父であり師でもある清倍のときから看板絵以外は鳥居派の伝統的な技法を離れ、優しい表情の画風に移りつつあったが、さらに清満は鈴木春信などの画風を取り入れた浮世絵版画を数多く描いた。 

 鳥居清経 

 鳥居清経(とりいきよつね)は江戸の芝居番付の版元である中村伊左衛門の子であり鳥居清満の門人であるとされるが生年没年は分かっていない。清満は鳥居派の絵師の中では多くの弟子を育て、清経自身は同門で後に鳥居派の四代目当主となる鳥居清長に次いで優秀であったという。黄表紙などの挿絵を多く描いたが、一枚物の役者絵は少ない。掲載の作品は全て黄表紙などの絵本。なお、掲載本の多くは修復本で、タイトルも原題とは異なっているものもあると思われます。

 鳥居清長 

 鳥居清長(とりいきよなが)は宝暦2年(1752)に江戸木材木町(現在の日本橋)で生まれた。鳥居家の血筋でなく、鳥居家三代目の鳥居清満の門に入り、明和4年(1767)に細版紅摺絵を発表したのがデビュー作とされる。このときは長兵衛と名乗ったが、19歳の時から清長と号した。当初は鳥居家伝統の役者絵を主に描いていたが次第に鳥居派風から離れて美人画をもっぱら描くようになる。清長の描く美人画は、最初の頃は鈴木春信、北尾重政、湖龍斎、文調などの影響を受けて八頭身で華奢な姿であったが、次第にどっしりとした健康的な体つきの美人画像を作り上げていった。また美人画の背景に写実的、現実的な江戸の風景を描き、背景と人物が快く調和した作品であることで高く評価された。背景を写実的なものとすることで二枚続き三枚続きなど複雑な構図を上手くこなし、以後の揃物浮世絵版画の興隆に多大な影響を与えた。

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