浮世絵 
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 上方の浮世絵師


 吉田半兵衛 

 吉田半兵衛(よしだはんべい)は京都の浮世絵師。通称は定吉。生年没年は分かっていないが、元禄6年以降の作品が見当たらないことからその頃に亡くなったと推測される。このサイトの掲載作品は限られているが、同時代に活躍した江戸の菱川師宣に匹敵する浮世絵師として多くの作品を手掛けていたようだ。上方浮世絵界に大きな影響力を残した絵師の一人。 

 蒔絵師源三郎 

 元禄年間(1688〜1704)に上方で活躍した絵師で、蒔絵師源三郎(まきえしげんざぶろう)と呼称されることから本職は蒔絵職人であったと思われる。大和奈良の人とされるが出自など素性、生年没年ともに分かっていない。掲載の「人倫訓蒙図彙」は代表作の一つ。西鶴の草紙の挿絵は掲載本以外にもあると思われる。

 西川祐信 

 京都の浮世絵師で、初期の上方浮世絵界の第一人者。江戸に下ることなく上方で活躍。寛文11年(1671)医術に携わる西川家の三男に生れ、成人して西園寺致季(むねすえ)の御家人となる。狩野派、土佐派の絵を学び、菱川師宣や吉田半兵衛の画風を取り入れた独自の画風を確立。
 生涯に300冊に及ぶ絵本を手掛けたとされる。多数の好色本を描いたこともあり、”西川絵”は春画の代名詞とされた時期もあるという。しかし古典の知識を引用し、それを当世風に描き、抑制のきいた上品で穏やかな画風は次代の浮世絵師に大きな影響を与えた。
 

 長谷川光信 

 大阪の浮世絵師。生年没年は分かっていない。本名は長谷川庄蔵。享保(1716〜)から宝暦(〜1764)にかけて活躍した。画号は「柳翠軒」と「松翠軒」があり、柳翠軒は享保年間の作品に使われ、松翠軒は延享5年(1748)以降の作品に使われている。この頃は上方における絵本の出版が最も盛んな時期で、光信も絵本、挿絵本を多く描いている。ただし元文1年(1736)頃から延享5年(1748)頃までの12年間は活動を中断していたようだが、その理由は分かっていない。専門家の中には前後で二人説もあるようだが、画風に変化が見られないことから同一人物であるとの説が有力のようだ。光信の画風から西川祐信の門下ともいわれるが確証はない。また光信は鳥羽絵の絵師としても有名。いくつかの傑作も残している。絵本などには大阪の商人の姿をよく描き、当時の風俗を知る上では貴重な資料でもある。 

 松尾耳鳥斎 

 宝暦元年(1751)頃に大阪の酒造家の家に生まれ、家産を使い果たして骨董商を営みながら絵を描いていたとされる。本姓は不明で、俗称を松屋半三郎といった。狩野派の絵師に学んだとされるが、耳鳥斎の描く絵は略画体で個性的な鳥羽絵で知られている。天明期(1781〜1788)には鳥羽絵で描いた耳鳥斎の扇面が大いにもて囃されたという。肉筆画も多く描いたとされるが、このサイトには掲載はない。享和年間(1801〜)の始めに亡くなったとされる。 

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