浮世絵 宮川長春

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 宮川長春 (みやがわ ちょうしゅん) 

 宮川長春は尾張国宮川村に生まれる。本姓は尾藤。生年ははっきりしないが亡くなったのは宝暦2年(1752)で享年71歳とする記録があり逆算して天和2年(1682)と推定。通称は長左衛門、後に喜平次と改める。元禄(1688〜)の頃に江戸に出て土佐派の絵を学ぶ。ただし菱川師宣に私淑しかつ懐月堂の画風も倣い、その両者の画風を取り入れて独自の絵を習得する。木版画の作品はなくすべて肉筆画。美人画を多く描き、上品な画風は当時富裕層の間でもてはやされたという。
 寛延2年(1749)長春は日光東照宮の廟舎の壁画修復を幕府の御用絵師狩野春賀から下請けし、長春の門人が日光に赴き修理を完了するが、日光で受け取る約束の工賃を狩野春賀は支払わなかった。この為寛延3年になって長春は狩野春賀の屋敷に行き催促するも口論となり、且つ乱闘になった。これに狩野春賀の門弟も加わり、長春にを暴行を加えて荒縄で縛りゴミ置き場に放置したという事件になる。長春の帰りが遅いことに不審を持った長春の子(只吉?)が狩野邸を訪れて瀕死の状態であった長春を救い連れ帰るが、深夜、報復のため狩野の屋敷に乗り込み、狩野春賀と門人3名を殺害。長春の子も深手を負いその場で自害。この事件によって狩野春賀の家は断絶となり、長春は江戸追放の処分となった。
 長春には多くの門人がいたが、その中の春水は特に優秀で師の長春に劣らぬ力量があった。師が罪人となったので宮川の姓を名乗らず”勝宮川”を名乗る。この春水の弟子の春章は勝川春章を名乗り”勝川”派の祖となった。また春章の門人となった勝川春朗は後に葛飾北斎を名乗り”葛飾”派の祖となる。長春自身は浮世絵版画を手掛けてはいないが、門人を介してその後の浮世絵版画界に大きな影響力を与えた。

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