伊勢亀山藩の侍医・多賀伯庵の子として承応元年(1652)に生まれる。父の江戸勤務に従い8歳(または15歳)の時に江戸に住む。絵の才能を認められ藩命により狩野派の絵師に入門。”多賀朝湖”の名前で狩野派の町絵師として活躍。豪商、旗本、諸大名まで幅広い交友があり、吉原遊郭通いを好み、自らも幇間として芸人でもあった。
47歳の時、生類憐みの令の違反(実際には客と幇間の立場で交友のあった大名に吉原で散財(太夫を身請け)させ
、これが幕府の怒りをかったことが起因とされる)で三宅島へ流刑となる。流刑地でも絵は描き続けその作品は今も現地に残る。徳川綱吉の死によって58歳の時に赦免されて江戸に戻り英一蝶に改名。絵師として復帰する。また吉原通いも復活する。
遺された作品は肉質画であり版画による作品はなく、当サイトの浮世絵師の範疇からはみだした存在であるが、この時代の寵児であり、画風は菱川師宣に匹敵、あるいは凌ぐともいわれ後世の浮世絵師に多大な影響を与えたと伝えられることから掲載しました。ただし掲載した画譜、画帖は一蝶の死後、他の浮世絵師が模写した絵を版画にして出版したものです。また絵巻物は絵師不明の写しです。享保9年(1724)死去。享年73歳。
辞世の句 「まぎらはず 浮世の業の 色どりも 有りとて月の 薄墨の空」 |