浮世絵 
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 黎明期・初期の浮世絵師


 菱川師宣
 
 元和1年(1618)現在の千葉県鋸南町保田の縫箔業を営む家に生まれたとされるが、生年には異説もある。江戸に出て、縫箔業を営みながら狩野派などの伝統的技法を学び、世相に敏感な仮名草子などの挿絵を描くことで独自の画風を会得していったものと思われます。自らは大和絵師と称し、挿絵に初めて自分の名を記して出版したことでも知られる。師宣以前にも風俗画を描く絵師は存在したが、版画を主体として活躍した絵師は師宣が最初であり、浮世絵師の租として、またその自由で大らかな画風は以後の浮世絵師の手本となった。 

 英 一蝶 

 伊勢亀山藩の侍医・多賀伯庵の子として承応元年(1652)に生まれる。父の江戸勤務に従い8歳(または15歳)の時に江戸に住む。絵の才能を認められ藩命により狩野派の絵師に入門。”多賀朝湖”の名前で狩野派の町絵師として活躍。豪商、旗本、諸大名まで幅広い交友があり、吉原遊郭通いを好み、自らも幇間として芸人でもあった。47歳の時生類憐みの令の違反(実際には客と幇間の立場で交友のあった大名に吉原で散財(太夫を身請け)させ、これが幕府の怒りをかったことが起因とされる)で三宅島へ流刑となる。流刑地でも絵は描き続けその作品は今も現地に残る。徳川綱吉の死によって58歳の時に赦免されて江戸に戻り英一蝶に改名。絵師として復帰する。また吉原通いも復活する。手掛けた作品に版画はない。

 宮川長春

 尾張国宮川村に生まれる。本姓は尾藤。生年ははっきりしないが亡くなったのは宝暦2年(1752)で享年71歳とする記録があり逆算して天和2年(1682)生まれと推定。通称は長左衛門、後に喜平次と改める。元禄(1688〜)の頃に江戸に出て土佐派の絵を学ぶ。ただし菱川師宣に私淑しかつ懐月堂の画風も倣い、その両者の画風を取り入れて独自の絵を習得する。木版画の作品はなくすべて肉筆画。美人画を多く描き、上品な画風は当時富裕層の間でもてはやされたという。長春には多くの門人がいたが、その中の春水は特に優秀で師の長春に劣らぬ力量があった。春水の弟子の春章は勝川春章を名乗り”勝川”派の祖となった。また春章の門人となった勝川春朗は後に葛飾北斎を名乗り”葛飾”派の祖となる。長春自身は浮世絵版画を手掛けてはいないが、門人を介してその後の浮世絵版画界に大きな影響力を与えた。

 奥村政信

 貞享3年(1686)江戸で生まれ、鳥居、菱川の画風を独学で学び、その影響を受けながら独自の画風を創る。元禄末期から宝暦年間まで長くにわたって活躍。この間、自らも版元の経営に参加し、日本橋通塩町(現馬喰町)で奥村屋源八(赤ひょうたんが商標)を営む。墨摺絵、丹絵、漆絵、紅摺絵などのあらゆる形式、役者絵、風景画、武者絵、花鳥画などあらゆるジャンルの絵を手掛けるとともに、遠近法を採り入れた浮絵、一枚物の細絵で柱に飾る”柱絵”、組絵、シリーズものの絵を独創するなどのアイデアマンであった。後の多色刷りの浮世絵(錦絵)が登場する、その先駆けとなった絵師ともされる。

 西村重長

 元禄10年(1697)生れとされるが確証はない。没年は宝暦6年(1756)。江戸通油町(現日本橋大伝馬町)の地主であったが、後に神田に移り本屋を開業。浮世絵師としては鳥居清信、奥村政信の様式を学ぶ。一般には鳥居派の絵師とされる。多才な人物であったようで、奥村の浮絵を真似た絵を描いて出版もした。また墨線を使用せずに紅、黄、緑、鼠色でもって摺った、無線絵の一種とされる”没骨の水絵”といわれる技法の作品も手掛けた。これらは後に石川豊信、鈴木春信、礒田湖龍斎の画風にも影響を与えたという。多くの絵を描いたとされるが遺された作品は少なく、代表作として「絵本江戸みやげ上編」の挿絵(下編は門人とされる鈴木春信が描く)がある。 

 石川豊信

 正徳元年(1711)生れ。没年は天明5年(1785)。西村重長の門人で当初は西村重信、西村孫三郎の名前で柱絵や細板の紅絵、漆絵を中心として描いていた。36歳の頃、小伝馬町の旅籠屋の婿養子となり石川豊信と名乗る。
 温和な丸顔と豊満な体つきの女性を描いた美人画は紅摺り絵全盛時代の代表的な作風で、石川豊信はその代表にあげられ、画風は鈴木春信に影響を与えたといわれる。
 後に狂歌師として名を成し、狂歌絵本の編者として多くの出版にかかわる宿屋飯盛(石川雅望)は豊信の子。

 鳥山石燕

 本名佐野豊房。生家の状況は不明。狩野派門人として狩野周信、玉燕に絵を習う。後に浮世絵を描き、氷川明神、湯島天神、鬼子母神など神社仏閣に絵馬を奉納して世間の注目を得る。一枚摺りの浮世絵は(ほとんど)なく、絵本が活躍の舞台。石燕の描く絵は主として妖怪で、その妖怪も恐怖心を与えるものでなく、奇妙さや、微笑みさえも与えるもの。現代の漫画家である水木しげるの妖怪のイメージにも影響を与えたといわれている。また、拭(ふき)ボカシという技法を発明したことでも知られる。少年期の歌麿を預かり、戯作者恋川春町を育てたともされる。

 鈴木春信

 享保10年(1725)生れとされるが確証はなく、また生家も不明。本名は穂積で後に鈴木を名乗る。西村重長の門人とされるが画風は西川祐信に近い。鈴木春信の描く美人画は細見で可憐な表情をしているのが特徴。明和期に流行した絵暦を多数描き、これが多色刷りの「錦絵」へと発展するきっかけになった。特に江戸の町娘を描いた美人画は一時代を成し、後の浮世絵師に大きな影響を与えたとされる。生涯役者絵を描かなかったという説もあるが、これにも異説があり、初期の頃に描いた紅摺絵の役者絵の存在も指摘されている。明和7年(1770)に没する。 

 一筆斎文調

  本所亀沢町に住んだとされるが生年、没年は分かっていない。狩野派の絵師・石川幸元の門人であったが、宝暦頃(1751〜1764)より浮世絵を描くようになる。美人画は鈴木春信の、役者絵は勝川春章からの影響を受けた。明和7年(1770)に勝川春章と共筆して刊行された「舞台扇」が好評を得て、似顔絵役者絵の第一人者として評価される。しかしより写実的な役者絵を描く春章に人気が移り、安永元年(1772)以降は役者絵を描くことは止めたようだ。文才に恵まれて浮世絵の他に狂歌をよくし、雅号を「頭之光」と称した。

 礒田湖龍斎

 生年享保20年(1735)、没年寛政2年(1790)。本姓は藤原で土浦藩主土屋家の浪人であったという。両国薬研堀に住み、西村重長の門人であったとの説があるが確証はない。美人画を多く描き、その画風は、始めは鈴木春信の影響を強く受けていたが、次第に独自の画風を確立していった。柱絵を多く描くが、肉筆画に優れた作品を多く残している。天明2年(1782)に法橋に任じられた。 

 富川房信

 生年没年とも不詳だが、江戸大伝馬町で地本問屋を家業とする家に生まれたとされる。姓は山本、通称九左衛門。西村重長の門人、あるいは鳥居清満の門人ともいわれるが確証はない。家業の地本問屋は房信の代になって衰退し安永年間(1772〜)に廃業するが、宝暦年間(1751〜)から安永年間(1772〜)にかけて250種もの黒本、青本を手掛ける。そのほとんどは自画作であったという。安永1年に富川吟雪(ぎんせつ)に改名し、同年に出版した「邯鄲浮世栄花枕」は黄表紙の祖とされる恋川春町の「金々先生栄花夢」のモデルとなったといわれる。房信の描く絵は、女は春信風で繊細に描かれているが、男は鳥居風の瓢箪足画法から抜け出していない。黄表紙の興隆に連れて衰退する。

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