合巻は赤本、黒本、青本、黄表紙として展開してきた草双紙(絵草紙)といわれる文学作品の最終形態。
一般的に①赤本、黒本、青本の時代は元禄(1700)の頃から安永3年(1774)頃まで。幼児向けの赤本の内容が、やがて大人向けの内容を備えて黒本、青本へと進化する。この時代は概ね素朴で浪漫的な作風であった。
②安永4年(1775)成人向けの草双紙(絵草紙)として恋川春町の「金々先生栄花夢」が出版され、以降同様作品が数多く出版され流行する。これらは黄表紙と呼称された。赤本、黒本、青本、黄表紙の名前のいわれは、いずれもその表紙の色に由来する。また半紙二つ折り5枚(丁)10頁を一冊とする本の構成は黒本、青本、黄表紙、さらに合巻へと引き継がれている。
③黄表紙の作柄の変化により、一編が長大化して五冊物、六冊物、それ以上の冊数を要する作品が現れる。製本の手間を省力化すること、また読者の利便性から文化4年(1807)ごろに何冊かを合冊(巻)して製本するようになり、これを「合巻」と称した。合巻は明治時代の中頃まで出版されたが、本の体裁だけでなく作品の内容も時代に沿って変化してゆく。
本サイトでは文化4年(1807)以降に出版された草双紙(絵草紙)を合巻として掲載していますが、全てが合巻の体裁で出版されたのではなく、初期の頃は黄表紙の体裁のもの、合巻の体裁のものが混在して出版されています。
合巻の特徴は合冊(巻)して出版された以外にもあります。特徴の一つに①口絵の登場があげられます。作品の主要人物の性格、境遇、行動などを紹介した浮世絵(錦絵)風の絵を2.3丁にわたって掲載するようになった。これは当時流行した「読本」の影響を受けたものと推測されます。また時代と共に口絵の摺刷技法も進化して薄墨、濃墨の版彩色を施したものも現れます。
②合巻の特徴として表紙の変化もあります。当初は黄表紙の名残りである簡単な色彩の絵題箋を貼付したものでしたが、表紙全体を覆うほどの大きさの絵題箋になり、さらに文化6年(1809)ごろには多色刷りの浮世絵(錦絵)を表紙にじかに摺ったものが現れるようになった。直接表紙に浮世絵(錦絵)を摺ったのは手間の省力化のほかに草紙の購買意欲を高めることにも役立ったものと思われます。この傾向はそれ以降も進化しながら続いてゆく。
③合巻は製本の体裁だけでなく内容も変化してゆく。もっとも、草双紙(絵草紙)の内容は文芸作品というより娯楽を提供することが最大の目的であり、強い文芸意識を持っていたのではなく、版元の意向に従って売るためには時代の変化に即座に順応し、時の権力にも機敏な対応をせざるを得ないものであった。そうした制約の中で当初は読切の短編ものが合巻の主流であったが、複数年を掛けて出版される長編物、続物が人気の主流となっていく。また諸々の規制・制約のなかでも当初は敵討物・勧善懲悪物が中心であった作品内容にお家騒動等の陰謀物(?)や歌舞伎の要素を取り入れた内容の作品が現れる。文政年間(1818~)から天保年間(1830~1843)は合巻の爛熟期とされ、曲亭馬琴は中国小説を題材とした翻訳ものを数々出版し、柳亭種彦は日本の古典である源氏物語を題材として偽紫田舎源氏を出版している。
天保年間末期から行われた老中水野忠邦による天保の改革は草双紙(絵草紙)の出版にも多大な影響をもたらした。弘化年間(1844~1847)は出版界全体が自粛せざるを得ない状況になり、合巻の出版は激減する。嘉永期(1848~)になると、天保改革の影響から脱して、その反動から合巻の出版も活発になる。しかし作品の内容は読本の人気作品を合巻に引き直したものや、既に出版された合巻の内容を刺激的・妖気的に組み入れ、質的に向上することなくやたらに内容を膨張させた長編物が出版されるようになる。
合巻は明治時代(1868~)中頃まで存続するが、明治維新後に開化物など新しい題材は登場するものの質的には前時代から進化することなく、新聞小説など他の読み物の人気に押されて衰退し、消滅することになる。
合巻全般を見た場合、文学作品としての評価は必ずしも高いとは言えないが、浮世絵・錦絵風の口絵を取り入れたこと、表紙に多色刷りの浮世絵、錦絵を用いたことなど、浮世絵絵画の視点から見れば合巻の存在は充分な役割を果たしていたものと思われます。 |